地域の英霊

 仕事のからみで地元の遺族会が刊行した顕彰録を読む機会を得た。ワシャの住む町なんて小さなところなんですよ。それでも、1ページ二柱の英霊を顔写真付きで載せると、それでも900ページちかくにもなる。ワシャの町だけでも1600柱以上の若者がお国のために戦死をされたということだ。
 ざっと見ているだけでも、地元の方々である。苗字にも馴染みがある。住所も記載されているので、どこに住んでいたのかも具体的に思い浮かべられる。靖国遊就館で拝見するよりもさらに身近に感じられるなぁ。階級、経歴、戦歴なども記載されてあるのでかなりリアルにその方をイメージができる。

 ワシャの家から北に3kmほどの集落出身の陸軍伍長は享年21歳である。若いよなぁ……。遺影はきりりとしたいい男だ。歩兵第18連隊機銃中隊に所属し満州に渡った。昭和10年のことである。翌年、内地勤務になり豊橋に戻るが、12年、再び大陸に渡り、上海郊外の農村での戦闘で戦死された。
 南の集落出身の海軍中尉は、県立中学校を卒業後、航空兵を志願した。昭和14年に霞ケ浦予科練に入隊し、終戦間際まで日本の空を守備していた。昭和20年4月6日、南西諸島方面で特攻により戦死をされたと記載されている。ワシャは今、書庫から文藝春秋臨時増刊の『日本航空戦記』を掘り出してきて見ている。昭和20年の春、南西諸島周辺での特攻が激しかった。この時期の戦闘を記録した1枚の写真が印象的だ。
 水平線が画面の中ほど下に位置している。その水平線ぎりぎりにおそらく0戦であろう。日本の特攻機が心細いほど小さくシルエットで写っている。その周辺、前後左右、空中海中に圧倒的な対空砲火により弾幕が張られている。空中で破裂するものは黒煙を上げ、海には何本もの帯になって細かい水柱が無数に立つ。まさに『永遠の0』のラストの「カヴァレリア・ルスティカーナ」の光景である。いかん……書いていて涙が出てきた。
 
 おいおい、この人はまさにご近所さんですぞ。ワシャの生家の目と鼻の先ではないかいな。軍医さんである。それも二人。京都帝国大学医学部と名古屋帝国大学医学部を出て、軍医候補生として入隊し、一方の軍医さんは、沖縄本島の大里で戦死、もう一方の先生はビルマにて戦病死されている。生き残って帰国されれば、当然、地元で開業されたろう。そうすれば駅前の病院に勤務されたか、あるいは、町のどこかに医院を構え、きっといいお医者さんになっていただろう。ワシャも駅前の病院や周辺のお医者さんにはとてもお世話になっていたから、きっとこの先生方ともご縁があったに違いない。京都大学の先生は26歳、名古屋大学の先生は27歳でお亡くなりになられた。

 我々から言えば祖父たちの世代である。世代はそうなのだが、実際の彼らは20代の若さで欧米、ロシヤなどと死闘を繰り広げた。今の日本は昭和初期の若い人たちの命に支えられている。結果として日本は敗北したが、辛うじて国体を守ることができ、北日本は「日本民主主義人民共和国」にならなくて済んだ。そして、わずか10年そこそこで奇跡の復興を遂げる。これも彼達が日本の将来を守るために命を捧げてくれたお蔭にほかならない。祖父たち、と言ったって、前線で必死に戦った方々はみな紅顔の若者たちである。彼等が命を賭して守り抜いた国土を、今、生きている我々が守らずしてどうする。無知な漫才師が「尖閣なんか中国に上げればいい」と言っていたらしいが、そんなバカがいることを英霊に恥じるばかりである。

 夕べのプライムニュースで、ジャーナリストの櫻井よしこさんが今の東アジア情勢を「国難である」と言っておられた。習金平が、金正恩が、トランプが活発に国益のための外交を繰り広げている時に、日本の国会の焦点は田舎の大学新設に関する「元秘書官」の尋問ですぜ。英霊たちが命懸けで守った日本の足を、野党の連中が引っ張っている。国難である。