ジョン平とぼくと/大西科学

積ん読状態だったのがようやく読み終わったので感想を書こうと思ったのだが、「アニメ業界の発熱地帯でしょ?」でおなじみ「さて次の企画は」ですでに大絶賛の書評が書かれていたので、別のことを書く。

――五日、吾妻官房長官は記者団の質問に答え、伊達首相の使い魔イゾルデは現在過労のため都内の病院で休養中であり、(略)

(「ジョン平とぼくと」 p.7〜8)

この官房長官アガツマ氏と総理大臣ダテ氏は当然伏線だと思ったが、別に関係なかった(なぜ「当然」伏線だと思ったのかは今となってはよく分からない)。むしろふつうなら「これは伏線かな」と気づきそうな箇所に気づかなかったということにあとで気づいた。(変な日本語だな)
続編はなくもない感じなので次回以降出てくるかもしれない。そうすると次回にはダテ氏は任期満了で首相を辞めアガツマ氏が首相になってるわけだな。(違います)

鈴音はバス通学だからこういう苦労は知らないと思うが、トルバディンなら、鞄のはじをぼろぼろにしなくても済むのではないか、とちょっと思う。まだ高校は一年以上あるのに、ぼくの鞄はかなり哀れなことになっているのだ。

(同 p.26)

この、つけたしのようにくっつく「とちょっと思う」なんかが大西科学っぽい。「かなり哀れなことになっているのだ」の部分は「かなりかなりなことになっているのである」だともっといいのに、っていうか「それ聞か」っぽくなるのに、とちょっと思う。「それ聞か」っぽくなっても別によくないか。そうか。

追記:「それ聞か」は「ちょっとかなりなことになっている」だった。まちがえた。

声はますます大きくなる。こっちに近づいてくるようだ。何かに追われているようにも感じる。書き忘れたが、化学室の窓は、廊下側も窓側も、厚い暗幕が引かれていて、外は見えなくなっている。

(同 p.103)

(略)
などと書くと良い話のように思える。しかし、そうとばかりは言えないのだった。

(同 p.189)

と、つまり神原さんと辻田は席が隣同士なのだが、いい機会なので、断片的に書いてきた、クラスの席の配置をここで振り返っておきたい。

(同 p.148)

何箇所かに「書いている」ことを示す文章があるが、「この本は主人公『北見重』が日記あるいは記録文書に類するものとして文章に起こしたものである」というエクスキューズは特になく、なぜ「書く」なのかがよく分からない。そういうものの場合はプロローグに言及がありそうなものだが、ない。文体は一人称文体なので「書いている」という動作の主体は「北見重」のはずだが、しかし「北見重」は「本の著者」ではないだろう。なぜ「書く」なのか。「書く」としているからには、「地の文章は『過去を振り返っているもの』である」ということになる(「書く」のは必ず事件後なので)が、必ずしもそうはなっていない。謎だ。
しまった、今見たら所長の感想とちょっとカブってる。まぁいいや。

追記:再度考え直して、「地の文章は『過去を振り返っているもの』である」とみなしても問題ないのではないか、と思った。「書く」としている違和感は依然ぬぐえないが、それはさておく。


どうでもいいけど「大西科学」がキーワード化されていなかったのでキーワード化。無意味に充実。なにか間違っていたら直してください。でも「世界で唯一のノッケー公式サイト」の部分はできれば消さないでください。ノッケーいいじゃないノッケー。

「大西科学」の左右マージンが3em

大西科学で思い出したのでついでに書くが、大西科学のサイトをオレの携帯で見ると、イメージ的にこんな感じになる。

(画像はイメージです)
ええとつまり大西科学では左右マージンを3emと指定していて、でオレの携帯はよせばいいのにCSSをマジメに解釈しようとするので一行15文字ぐらいしか入らないのにCSSの指定どおり左右3文字ずつ間を空けるので、結果としてものすごく読みづらい感じになってしまう。
CSSは携帯などプアな環境でもHTMLを扱えるようにするために文字装飾などをHTMLと分けて処理しようという考えから生まれたものじゃないのか。だから携帯はCSSを無視するべきなんじゃないのか。
と思ってるが、しかし、「携帯が悪い」とは思いつつも、「左右マージンは%指定にしてくれればいいのに」とちょっと思ってる、っていうのが正直なところですよ。

死ぬ死ぬ詐欺とポリティカル・コレクトネス

いわゆる「死ぬ死ぬ詐欺」と呼ばれている件についてはあまりよく知らないのだが、いわゆる「サニーサイドアップ・メソッド」の文脈で理解していた。

PR会社サニーサイドアップは、ポリティカル・コレクトネスな立場を上手く作り上げ、非難を浴びない格好いいイメージを生み出し、それで利益を上げるのがとても上手い。これをスマートというかあざといというかは、僕はその人の立場によると思う。

ポリティカル・コレクトネス(以下PC)な立場による事業は非難を浴びにくい。「死ぬ死ぬ詐欺」と称される件についても同様で、そもそもは「命はなによりも大事」という意見は非難を浴びない、というPC的前提がある。PC的に正しいのだからこれによって募金をつのり病気の少女を助けることには何の問題もないし、結果として必要額以上の募金を集め「利益」を得ても、PC的には何の問題もない。PC的には。

あと『死ぬ死ぬ詐欺』って本当に死ぬんだよ、お金が集まらなかったら。

この一文は正直言ってびっくりしたが、PC的には正しい。生命は金額に変えられない価値があるのだから、お金を集めることを阻害しようとする勢力はPC的に見れば間違っている。PC的には。

「PCの行き過ぎ」はしばしば問題になる。今回の件もそういう反PC文脈でとらえている。どこまでがよくてどこからが「行き過ぎ」なのかは、よくわからない。

ところで、ややこしい話だが、「生命をもとにお金もうけをしてはいけない」という意見もPCの文脈上にあるのではないかと思っている。生命は金額に変えられない価値があるのだからその生命を使って金銭的な対価を得てはいけないのである。PC的には。