water_sky’s waterbound diary

酒に溶かしたやり場のなさと打ち明けられた愛のあいだ、泥の川とディラックの海のあいだ

包塚古墳

 
 「two shrines and two springs」シリーズ(#1:http://d.hatena.ne.jp/water_sky/20161213/p1、#2:http://d.hatena.ne.jp/water_sky/20161214/p1)の番外編です。

 水戸市愛宕山古墳は、仲国造の墓といわれている。飯富町の大井神社は、初代仲国造・建借間命(たけかしまのみこと)を奉っている。そして、那賀(現在の常陸大宮市那賀地区)の近隣である門井地区にあったという大井神社こそ、もともと仲国造が建立した神社=延喜式内社に記載された神社だったのではないか。というのが前回までの推測。
 ところで、那賀地区において平成8年、古墳の発掘調査が行われている。仲国造の根拠地の説もある那賀地区でまさに、である。ならば、その古墳は愛宕山古墳でいわれているような仲国造の豪族の墓に他ならないのではないか。そして大井神社の謎を解くカギもそこにありはしないだろうか。そんなわけで、その古墳に行ってみた。



道路沿いに包塚古墳の案内板が設置されており「入口」と書かれているが、あまり参考にならない

 その名を「包塚(かねつか)古墳」というらしい。案内板によれば「東西径7m、南北径7m、高さ(墳丘)1mの円墳」であり、試掘調査により「周溝、葺石、粘土槨が確認された」とのこと。それら発掘品の特徴から、6世紀初頭に築造されたものとみられる。これは、水戸の愛宕山古墳と時期が同じだ。いよいよもって、ここは仲国造の墓なのではという気がしてくる。
 「那賀地内の緒川を見下ろす山頂部にあり」とあるので、山の中を歩くようだ。かねてよりあたりをつけておいた道から進入を開始するも、途中から不明瞭になってしまうので、仕方なく現道に下りて別の地点から進入を試みる。よその畑にちょいとお邪魔して適当にそのへりを探ると、山へ入っていく細い道があった。そこから山頂部らしき方向へ進むが、道は不明瞭だし藪がひどくてスムーズにはいかない。獣道かと思われるような藪こぎをこなして何となく上の方へ行ってみると、突然藪が開け、古墳にたどり着いた。


包 塚 古 墳

 10m四方ほどの広がりの中に、盛り上がりがある。ここがそうなのか。しかし、周囲は木と藪に覆われて全体像は把握できない。周囲を見回しても、他に何かあるわけでもなさそうだ。当然、大井神社につながる遺構など見つかるわけもない。明瞭な道があったので、そちらから下りる。
 途中までは比較的はっきりとした道形なのだが、やはり途中から猛烈に藪化していた。古墳の標柱には、平成26(2014)年設置と書いてあったので、この藪の中をやって来たのだろうか。まあ刈り払いして整備したところで、展望もなく遺構も何もない低山のこと、需要は限りなく少ないだろうし。このまま包塚古墳は山中に埋もれていってしまうのだろうか。





ここが出てきた地点。パッと見どこが道として続いているのかわかんないですね
 
 結局、古墳から北側の、今は放棄されて久しい畑のへりに出た。太陽に照らされたお墓がまぶしく、ほっとする。全身についた枯れ葉やらほこりやらを払って、包塚古墳の探索はおしまい。残念ながら、有力な手がかりを得ることはできなかった。

 明治期に皆川淡路という地元の歴史家が大井神社の謎について著した「大井神社考」(「ふるさとの史跡を探る(2) 御前山村教育委員会」に詳しい)に直筆で描かれている、往時の大井神社(と現在の門井鹿島神社)の図(この図も「「ふるさとの史跡を探る(2)」に収められている)をたよりに、あたりをつけた山にも登ってみたが、こちらも多少の藪こぎと気持ちのよい尾根以外には何もなかった。

 式内社・大井神社をめぐる謎は、いまだもって大いなる謎のままである…


 サービスカット。