第1章 13段の階段 -3-

 遠くで山の手線の電車の音がする。新大久保の歓楽街近くの雑居ビルの前にたっている。
 真一にとっては屈辱のいでたちである。
 すり切れた短いジーパンに、ミッキーマウスのたぼたぼのTシャツ。片手に真一のジェラルミンのバッグ、片手にマディソン・スクエアのブルーのバック。最悪のコーディネートだ。
 飯田からもらった住所によると、このビルの2階に、ユカはいるはずだった。
 深く深呼吸をして、階段に向かう。しかし、この格好で、記者と信用してくれるだろうか。裏社会で生きるユカと会う恐怖よりも、自分の格好のほうが気になった。
 そして、扉を開けると、階段を右足から5歩上って、左足が止まった。
 真一は2階までの、階段数を数えた。

 奇数じゃないか!

 奇数、そして割り切れない、しかも、不吉な13段。まあ、13段は迷信としても、「奇数」と「割り切れない」は譲れなかった。
 真一は統合失調症という奇病を持っている。世界どの地域にも100人に1人という確率で、生じる精神的疾患。複数のことを同時にバランスよく処理できないことから、その名前はつけられたが、かつてはもっとおぞましい名前で呼ばれていた。
 妄想、幻聴、幻視などが生じて、ひどくなると「スパイに狙われている」「神の声が聞こえる」「私は神だ」などと言ってしまう。
 スコッチ先生の処方で、真一のそういう症状は抑えられているが、やはり日々の奇行は隠しきれず、今回の異動もそこに、本当の原因がある。
 ある老舗割烹料理店の記事で「店の吸い物に、化学調味料が入っている」という記事を書き、店側から猛抗議にあったのだ。
 店が公開したレシピには、化学調味料は入っていなかった。しかし、社内の諮問会議で、真一は「調味料が入っていた」という主張を撤回しなかった。真一が、統合失調症であることは社内で知れ渡っていたし、真一は体よく、社の窓際的仕事にまわされた訳だ。もっとも、グルメ記者がそもそもエリートとも言えなかったが。「でも」と真一は思う。「あの吸い物には間違いなく調味料が入っていた」。
 真一にとって、困った問題は、統合失調症の症状よりむしろ、そこから派生して出てくる「強迫」症状だ。
 手を何回も洗う、道を直角に曲がらないと気が済まない、外出時には、室内のコンセントを全部引っこ抜かないと不安になる、その他、もろもろの症状が真一を悩ませる。
 そして、「数唱」。不吉な数にこだわったり、好きな数字を繰り返したりなど、数に関する強迫神経症的な行為のことだ。

 階段の5段目で足を止め、真一はスコッチ先生に電話を入れた。
「あー、真ちゃん、今日はどうしたの? いま、診療中で忙しいんだよ。また電車から降りられないの?」
 スコッチはせわしなく言った。スコッチと言っても、日本人である。精神科医・植村淳一。アイラ島シングルモルトに詳しく、ボウモアを愛飲している。診療中にもこっそりやっているといううわさもある。かたくなにポール・スチュワートの3つ揃えしか着ない頑なな英国趣味中年だが、精神的にはかなりアメリカン。美女看護婦に囲まれて、悠々自適に診療を続けている。
「先生、か、階段が13段なんですよ」
「あー、また昇れないわけ。割り切りないしね、ははは。んじゃ、もう後ろ足で戻っておいでよ」
「そういうわけにはいかないんですよぉ。今日、階段を登らないと、今度は、地方支局へ転勤させられちゃいますよ」
 真一はあわてて事情を話した。
「うーん、わかった。じゃね、こうしよう。水、持っているでしょ。いつものように。そしたらね、例の特別な薬、持っているでしょ。秘密兵器。3錠しかあげていないやつ。あれ、1錠飲んじゃって。そのまま、20分ぐらい5段目でたたずんだら、今までの5段は忘れるから、6段目は右足から上がって。そうすれば、8段目できれいに左足で終わるから」
「先生、恩に着ます。今週の土曜日、吉祥寺のあの店で、一杯どうですか。珍しいスコッチが入ったそうです」
 真一はほっとして、ポケットの白ハンカチを探したが、当然、ハンカチはなかった。
「もちろん行くよ。今日の診察代は高いよ」
 そう言って、スコッチは電話を切った。
 秘密兵器を飲むと、確かに、13段へのこだわりは薄らいでいた。真一は残り8段をフレッシュな気分で右足から登った。