藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

プロのすごさ。

週末、たまりに溜まった未読のブログや、雑誌類を片付ける。
(それにしても、finalvent氏の怒涛のようなこのエントリーは何か。更新力、恐るべし)
最近、休みの大半がこういった「情報整理」みたいなことでつぶれることになっている。


少し早起きするために、少しお酒を控えたり。
本末転倒な気もするが。

プロ中のプロ。

そして最近思うのです。


司馬さんの講演を拝聴し。
羽生さんの著書を読み。
吉本氏の読書法を知り。
カツァリスのリストやバレンボイムのベートーベンを聴き。




つくづく、彼らは「自分の領域を持つプロ」だな、と。
改めて。
むむぅ、こちらには、その実体を理解する能力も充分でない、と。(嘆)


彼らは一体どんな人たちだろうか。

その仕事を「生業(なりわい)」としていれば、プロ。というのが一番広義か。
狭義には、その道の最高水準にいる人、だろうか。

自分達に見えるもの

指揮者や演奏家や歌い手にせよ、
プロ棋士にせよ、
作家や詩人や画家にせよ、


著名なプロの「仕業」みると、その「すごみ」に圧倒される。


結果としての「演奏」や「作品」や「記録」に驚く。


で、当たり前といえばそれまでだが、より「著名なプロ」ほど、「より卑近」だ。


ついつい、親しみなど感じてしまう。


その水面の下の火の出るような努力は、そうそう窺い知れない。



ハッとするのは、自分が「その道」に踏み込んだ時ではないか。


同じ畑に入って、気づく。

羽生三冠が、いかにすごくても、「本当のすごさ」は自分には掴みきれぬ。


「周囲のもの」と比較対照して、相対的にその大きさを知る、のがせいぜい。


「どれほどの偉業か」を自分では、計れぬ。メジャーを持ち合わせてないのだ。



最近、ブログで何だか散文を綴り始める。また、
古典、と言われる時代の音楽を、その体系の根もとへ遡って、たどりなおしたりしている。


過日、プロ達の本を読み、また演奏を聞いていて、*1「ハッ!」とする。


この文章に表現される、この思想に至るのに、一体どれほどの「学び」があったのだろう。


この一曲を演奏するのに、どれほどの(譜面や背景の)研究がされたのだろう。どれほどのスケールの練習があったのだろう。と。


「感じる力」をつけること。

例えば、音楽家


大体、3才から5才ころから譜面に向かい、
1日8時間、
一年に360日くらい、
10-15年間続けている人、が『普通』のセグメント。
つまり楽器の演奏、ということに「3-4万時間」費やしたところが底辺になるわけだ。


彼らの多くはすでにプロと言っていいレベル。


そしてそこに、

「さらなる努力」や
「良き指導」や
「経済的な幸運」や
「天分」が合わさり、

頂点に近い「一握りの星」たちが出現する。


自分たちは、この星たちを頻繁に目にしているのだ。



少数の分野でもいい。
この星たちを計る「自分のメジャー」を持ちたい、というのがこの頃の自分の目標だろうか。


聴衆としても、読者としても、まだ半人前。


「一番美味しいところ」を味わっていないのだ。もったいないではないか。

*1:この日は、ベートーベンの七番(ショルティ指揮、84年のDVDを聴き、吉田秀和氏の「指揮者」を読んでいた。