藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

コンポーザとプレイヤー



作品を作る作曲家。


聴衆はともかく、「演奏家」に対しては絶大なる力を持つような。



一方演奏家は100%以上、作曲家の心情や意図を読み取るように腐心する。




歌手と作曲家もしかり。
演歌歌手と作曲家の心の交流などはよく話題になっている。


で、まだ生きている作曲家ならともかく。
クラシックなどはもう数百年前にみな亡くなっている。


あるのは、シンプルな手書きの譜面とか、当時の書簡とか、新聞とか。
で、それらを現代の専門家が研究し、解釈する。
で、それらを演奏家が表現する。

演奏家のミッション。作曲家の思い。

よりストイックなのはプレイヤーか。
作品の解釈には終わりがなさそうだ。

作曲者のマインド。
時代背景。
生活状況。
恋心。

まさか巨匠といわれる彼らも、後年自分たちがここまで研究の対象となり、また万化する表現のプレイヤーたちが現れるとは想像だにしなかったのではないか。


ベートーベンやモーツァルトやバッハのような「不朽のコンポーザ」がなぜその後ぱったりと現れないか、については明確な回答はないが*1、どんなに表現したとてそれは一夜の露。


その演奏は映像で残ったにせよ、ダイレクトに引き継がれることはない。
弟子は弟子で、師にならってまた一からの努力あるのみだ。


演奏家はその「一瞬の瞬き」のために、全精力を傾けて散っていくような美しい、けれど最高に儚い存在なのかもしれぬ。
(なぜ「人に夢」と書いてはかない、と読むのか。なかなかポエチックだ。)


評価があるかどうかなどと分からぬ、いや問わぬ世界で勝負する作曲家。
それを渾身のエネルギーで表出する演奏家


音楽の世界、というのも知れば知るほど謎は深まるばかり。


またそんなところに足を踏み入れている。

*1:一説には、交響曲ソナタなど、すべての音楽的形式はすでに出尽くしてしまったので、新しいものはもはや生まれにくい、と聞くがどうも自分には納得しにくい