藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

ヘタレにならないこと

やーいよわむし。
懐かしいフレーズである。
けれども今だって、日常のそこここに、弱虫は依然として棲息している。

よわむし 【弱虫】
弱い者をののしっていう語。意気地なし。

意気地がないこと。
意気地?

いくじ-ぢ 【《意気地》】
〔「いきじ」の転〕物事をやりとおす気力。他に負けまいとする意地。 ——が無・い
(1)困難や苦しみに耐えてがんばり抜くだけの元気・気力がない。
(2)だらしがない。
「またこぼしたか。いくぢのない/滑稽本・膝栗毛 3」

「物事をやりとおす気力」。
なかなか素敵である。

人としての性質。


自分たち。
特に日本人。
には「好戦的」な人が少ないように思う。
そういう言い方はあまり論理的ではないかもしれないが、「和を以って貴となし・・・」というのは日本に独自に根付く価値観だということのようである。
(これの話はまた別の機会に)


そうすると。
「調和的」になる。
自分たちは政治も経済も、この「調和」が大好きである。
なぜなら、「その場では誰も傷つかないから」である。
その場で、「相手を罵倒して、血まみれにしてしまったら」、非常に気まずいからである。
ある意味、非常に美しい、「調和型」の修正であると思う。


だが。
物事、相手と争わず「玉虫色」にしておいてよいことばかりではない。
交渉事は「一ゼロ」ではないが、それでも相手に「ハッキリと主張」して意見を通しておかねばならないこと、はままあるものである。


「弱虫」とはそれができないことなのである。
「はっきり言わねばならない。言わねば伝わらない。」そんな時にも「傷つかないこと」を夢想して、相手に意思を伝えられない。
これが弱虫。
関西弁では「ヘタレ」という。

ヘタレマインド、の排除。


本当は相手に伝えたい大事なことがあるのに、その場の空気を優先して、「本来伝えたいこと」をもグズグズにしてしまう。
それがヘタれである。
しかしこのヘタれマインド、実は日常のいたるところに潜んでいる。


「これ以上はもういいや」とか。
「ここでもう折れてしまおう」とか。
「もう追求するのはよそう」とか。

自分が諦めてしまえば、「事態は相応に収束する」というような経験を、我われは段々としてゆくものである。

それが、そのうち「事なかれ」的な態度に変貌してゆく。


もう「自分だけが頑張ってルールを守らなくてもいいじゃないか」と心の悪魔か囁くのである。
相手と論争せず、諍わずに事態が収束できるのなら、少々自分の側の条件は「悪くなってもいい」。
ヘタれは、「そんな風」に物事を考えるのである。


逆に。
ヘタらない考え、だとどうなるか。
「値引きはいたしておりません。しかし仕立て直しについては何度でも無料で対応しております。」


そんな風に、誇りのある店のスタッフは答える。
ヘタレではない。
もしそこで、「そのセンス」を解さない客がいたら、それは「彼らのブランドには相応しくない」客なのであろう。


自分もヘタレだが、そんな中でも「調和」をいいことに、面倒な手間を惜しむような職業人ではいたくない。
「調停」という線を作り出してゆくような発案者、というあたりが自分の理想だろうか。


團さんに言うように、それが「日本に暮らす人」独特の才能なら、これまた活用せぬ手はないだろう。
今の時代、もっとも高度な輸出アイテムではないだろうか。