藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

心の境界。

日本の陸地面積は地球の表面積の約0.0007%ですが、(環太平洋火山帯にある日本は)
全世界の火山数の約7%以上が集中する世界でも有数の火山活動帯です。

こうしてみると、日本列島は「火山沿い」に配置されているとしか言えない。
関東と紀伊半島と四国以外は火山帯そのものだ。

海外で事故やテロなどがあると、「負傷者何人、日本人の被害は何人」とよく報道される。
あの「日本人」という計算の仕方はなんだろうか。
要するに「身内に近いところではどうなのか」を示すための目安なのだろう。
「日本人」というくくりの中で、自分たちはある「心理的な境界」を感じている。
国ってなんだろうか。
さらに「東京都在住の」とかを聞けば自分のごく傍の「誰か」を感じる。

被害に遭った人が自分の知り合いだとか、血縁者だとかいうと、これはもうとてもリアルな「我こと」になってくる。

大きなくくりで「人類初」というときには自分たちの気持ちは「人類」というカテゴリーにいる。
それが「日本人」とか「ゲルマン民族」とか「ヒスパニック」というと「そのカテゴリー」に簡単にすり替わる。
「アジア人」というときもあるし、「京都人」などともいう。
団塊の世代」ともいうし「戦前組」ともいうし「新人類」ともいう。

結局こんな「心理的な境界線」というのは、自分が都合よく共感するための、心理の自己操作にしか過ぎないのではないだろうか。

地球のできた四億年前からみれば、自分たちもただ一瞬の生き物でしかないし、銀河とか宇宙全体から見れば、どうも地球とか太陽系というのは極小の塵のような存在でしかないらしい。

自分とはやっぱり"相対"でしか知覚できないものなのだろうか。

大変な事故とか災害が起きると、急に日常が「当たり前のもの」ではなくなり、その有り難みに気づく。
時間が経つとだんだんとそうした思いは薄れ、また日常に埋没する。

人間が「知恵」で何か出来るとすれば、戦争体験も含めた「そういう経験と結果」を受け継ぎ、伝え続けるということでしかないようだ。

人だからこそ、経験は受け継ぐことができる。