藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

学問の味。

数学の演奏会、と聞いて直ちに「ああそういうものか」とは到底思い至らないけれど。
では音楽の演奏会はどうなのだろう、と思うと途端に「数学に近いかも」と思う。

音楽の演奏会でプロの演奏を聴くたび、または
プロの批評を聴くたびにに「そこまでは聞けていない」と思う。
必ず。

それは難解な数学の演奏を聴いているのと似ているに違いない。
バッハのシンフォニアを聞いて、その構造を感じることができる人は、相当数学のセンスがあるだろうと思う。
自分などは弾いていても気づかず、指摘されて「へぇー」ということが多い。

優れたものをちゃんと鑑賞するには、相応のレベルが要る。

「より難解で、複雑なものが、より面白い」という複雑の妙味が「人間の持ち味」ということなのだろう。
「学問こそが最高の趣味」という先達の言葉は、やっぱりそうなのだ。

数学の演奏会 森田真生

 7年前から「数学の演奏会」と題して、数学についてのトークライブを全国で開催している。音楽の世界には作曲家だけでなく、優れた演奏家がいて、楽譜をじかに読む代わりに、彼らの演奏を通して音楽に触れることができる。ところが、数学の世界には素晴らしい作品がたくさんあるにもかかわらず、その作品を人に届けるプロの「演奏家」がいない。数学史上の名作を、より多くの人に届くように演奏することはできないものか。そういう思いで「数学の演奏会」を始めた。

 音楽と数学の類似は、しばしば指摘されてきたことである。「音楽とは、数えている自覚を持たない魂による隠された算術の実践である」とは、万学にわたる偉大な業績を残した数学者ライプニッツ(1646〜1716年)の言葉だが、音の世界における調和の背後に、数理的な秩序を見た人は彼だけではない。

 楽器が発する音の連なり。あるいは、概念に基づく推論の連鎖。内容こそ違えど、音楽も数学も、時間発展する構造の展開が、人に感動を与える営みである。ならば、数学を音楽のように楽しむ空間をつくることもできるのではないか。

 「数学の演奏会」を開く場所は様々である。ライブハウスやホール、能楽堂やカフェ、あるいは寺や古民家などを会場とすることもある。演奏する場所によって、話す内容や聴衆の反応は変わる。それもまた「演奏」の楽しみである。

 数学の話を聞くとなると、大学の講義室やセミナールームのように、外界から閉ざされた部屋を思い浮かべる人も多い。咳(せき)払いすらはばかられる静寂の中、高度に計算された音響空間で味わう音楽があるのと同じように、証明の繊細な構造に意識を集中するには、余計なノイズのない静かな教室が理想的だろう。

 しかし、野外で楽しむ音楽もある。そこでは虫の鳴く声や海の音、風や予期せぬ雨さえ、音楽体験の一部になる。どこまでがノイズで、どこからが本来の音楽なのかをはっきり分けることができない。

 寺や昔ながらの古民家では、庭に開かれた縁側があり、演奏中に風が吹き、西陽が差し込み、あるいは雨が降り始めることもある。話が盛り上がってきたときに雷が鳴り、しばしの沈黙の間に鳥が鳴く。そういう場所にいると、人の心が本来、周囲と浸透し合っているのだということを実感するのだ。

 すべてが互いに繋(つな)がり合う大きな「網」を部分的にちぎると「樹」の構造になる。このことを連載の2回目のときに書いた。外界のノイズを遮断した教室やホールは、全体から必要な要素だけを切り出した「樹」を精緻に吟味するにはよい。だが、大きな「網」を全身で感じるためには、ノイズに充(み)ちた開かれた空間の方が相応(ふさわ)しい。

 どのような建築の中で数学を語るかも、数学の演奏の一部だ。精緻に計算された演奏もあれば、即興的に聴衆を巻き込んでいく演奏もある。そのそれぞれに相応しい空間がある。

 世界中で数学を演奏する人が、たくさん出てきたら面白い。同じ数学の作品が、演奏家によって違う解釈をされることもあるだろう。誰の演奏が好みかを、人が語り合うようになったらさらに楽しい。

 数学の演奏が常識になる未来。想像するとわくわくしてくる。

(独立研究者)