藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

選択の基盤

*[ウェブ進化論]これからの標準。

良くも悪くも生活する環境は、その人の将来に影響するという。

自分では環境を選びにくい幼少時はともかく。

義務教育が終わるあたりからは「本人が選べる環境」を国は意識して整備すべきである。

ドヤ街に育っても、親がいなくても教育、というよりも「選択肢」が選べるような仕組みが必要だ。

 

むしろこれまだのような、定型的な教育の価値はどんどん落ちているようだから、教育の無償化というよりも「職業選択支援制度」があればいいだろう。

中学ぐらいでいろんな幅広い職業紹介する機会を設け、また学問についても哲学・宗教から物理・化学まで「何を学ぶのか」についてしっかりと、徹底的に解説するのだ。

(いきなり小学校一年で「さくらさくら」とやり始めるから、自分などは一体何が始まったのかよく分からずにいた)

(そして恐ろしいことにそのまま大学までそのままの心境で過ごしたのである)

 

どんな子供でも農業から宇宙飛行士まで、世の中のあらゆる可能性を知っていれば、自分の好きな道を見つけるチャンスがある。

そういう「若さの選択肢」をいかに制限しないのか、ということこそ大人の使命ではないだろうか。

 

自分の思う正解ではなく、本人の意思こそが最も尊重されるのがこれからのスタンダードに違いない。

 

あと少し

*[ウェブ進化論]時代のスケールを考える。

よく「スケールの大きな人」という言い方をする。

どういう人のことだろうか。

坂本龍馬のような人だろうか、田中角栄のような人だろうか。

それとも'I have a dream'のキング牧師のような人だろうか。

 

そう考えてみるとどうも「自分を中心に考えない人」のような気がする。

「自分の利益とか、権力とか、名誉とかを度外視して考える人」ということだろうか。

そう考えると、今の政治家とか商売人というのは正反対で実に小さい。

そして「一般社会人の自分たち」もずい分小ちゃくなってはいないだろうか。

 

政治家が悪いのは選ぶ側が悪い、と言われる。

確かにその通りだろう。

大人たちがみんな自分の会社とか、業界とか、自分の家計に利益をもらおうとしている。

だからそれを知って、政治家は耳触りのいい話を掲げて当選しようとする。

そしてそんな大人たちをみて、若者は抵抗もせず白けている。

戦後の復興の熱狂は終わって、いつの間にか"既得権益の塊"がこの世を支配していると見える。

 

その頸木(くびき)から進んで離れよう、という大人はまだ少ない。

けれどあと10年も経てば世代が入れ替わるのではないだろうか。

 

若者はそんな時をじっと待っていて、今はしばらくやり過ごしているのだというふうに見える。

 

アウトプットの力

*[ウェブ進化論]インとアウトの違い。

最近、自分への「知識のインプットとアウトプット」という話を書いている。

自分の部屋の「積ん読本の山」を見ると、自分というのは「思うほどにはインプットできない存在だ」ということが分かるし、アウトプットもそれほど多いわけではなく、せいぜいこのブログを書いているくらいのものだ。

 

そしてそもそも「自分という器に何を出し入れしたいのか」という大元の方針が立っていないことに気づく。(難)

そもそも、言ってしまえば本能の赴くままに、興味の向くままにここまで生きて来ている訳で、そもそもそれもマズいことのような気がする。

それはともかく。

 

最近、特に音楽表現の「インとアウト」について考えている。

自分の演奏が下手すぎるのが気になるのだが、どうも「練習不足だけが原因ではないのではないか」と思い出したのだ。

今はアナログレコード以来、膨大な音源が残っているため"インプット"にはそれほどの苦労はないはずだ。

 

となると「アウトプットのイメージ力が足りていないのではないか?」と思うようになった。

演奏している時の自分は「ただ鍵盤を叩いて音符を追いかける存在」でしかなく、その仕上がりであるはずの「アウトプットのイメージ」が決定的に足りていない、ということに最近気がついたのだ。

 

どんな音に表現したいのか。

少しやり方を変えてチャレンジしてみたい。

カウントダウン

*[ウェブ進化論]4本のくじ。

昨日「読みたいほどに買った本は増えていくばかり」ということを書いた。

話は変わるが、自分の年代(60歳)以上の世代になると、当たり前だが急に「健康の話」が話題のトップに躍り出る。

それまでは昭和の名残よろしく、遊びに仕事に恋愛に、とまるで生き急いでいたかのような人たちも「トップは健康」ということになってゆく。

 

おそらく間近に「残り時間は有限である」ということが感じられるのだろう。

(反対に若さというのはその感覚を隠してしまうけれど実は同じことなんだ)

 

ということは理屈的には「若い時分に有限を意識」できれば、相当充実した時間の使い方ができる、ということは自明である。

若い頃に大病を患って、その後の生き方が変わった偉人の話、というのはそこら中にあるし。

 

30歳なら「5年の帯が10本ある」と考えれば、最後の帯が終われば80歳。

たった10本しかないですよ、と。

時分ならあと4本くらいだ。(汗)

このくじは「あと4回ひいてお終いになります」ということだ。

 

物の「所有と消費」とか、「時間と知識とアウトプット」とか、そんなことのバランスを「時間軸」を根本にして見直す必要があると思っている。

 

何せあと4本だ。

繰り返すこと

*[ウェブ進化論]思いと現実。

好きな本や評判で気になった本などを買っておいて「そのうち読みたい」と思うのは、自分の"知識への素直な欲求"なのだろうと思う。

けれど、それが全く積みっぱなしになっているのは、おそらく「自分のキャパを超えて所有してしまっているから」だ。

 

このアンバランスは考えるとなかなかに面白くて、自分たちは所有したいほどには、実は消費できない生き物なのだと思う。

あれも好き。

これも知りたい。

実はこれも勉強したかった。

そんな「いろんなことを知っている自分」に近づこうとして、あれこれ買い漁っている自分を想像してみるとどこか可愛く、けれど哀しい感じがする。(悲)

 

そんなに消化する力がないのに、まるで子供のように「あれもこれもそれも」と欲する様子は何とも、いたいけというか、ちょっと慎みに欠けるような気がするのだ。

 

というのも今日もまた一冊、カバンから取り出して一番新しく出現している「本の塔」の上にそっと重ねるたびにそう思うのだ。

 

好奇心はいいものだけれど時間は実は無限ではない。

本当にやりたいことを見つけながら読書に勤しみたいと思う。

 

すぐそこの監視

*[ウェブ進化論]実現のとき。

自分の住む近所の交差点に、いつもパトカーや警官が待機していて、知らずに右折してしまう車を捕まえるので有名な交差点がある。

夜以外は右折禁止なのだが見落としやすいらしい。

違反をする方も捕まえる方も何かのどかで「人対人で何かしているなぁ」という懐かしい風景に見えた。

自動運転機器が普及するにつれてすでに事故も減り続けているらしいが、そう遠くないうちに車がドライバーに交通違反をさせないようになるに違いない。

すでに道路の標識などはカメラで読んで警告などを出している車種もあるようだ。

 

今は街中至る所に警官が立ち、交通整理などをしているけれど、間もなく交通違反も自動で取り締まられる時代になるだろう。

違反の罰金も無くなるし、警官も今ほどいらなくなるだろうから、ここでも人は余ってくるのだと思う。

 

そういう目で見れば交番に人がいる必要はなく、街中に死角なくカメラをつけることに専念した方がよほど効率が良さそうだ。

そして肝心の実働部隊はロボットがかなりの部分を担える日も近いような気がする。

 

ロボコップは今となってはそれほど違和感のある存在ではなさそうだ。

しかしこれにAIが実装されたらと思うと、人間に取ってはかなりの脅威になるだろう。

 

それができたら日本は世界一安全な国になるのではないだろうか。

潜る本音(2)

*[次の世代に]触媒人を混ぜて。

親子や兄弟同士でも、案外「何を思いどうしたいのか?」 を知らないことは多いものだという話。

先日仲のいい親子と食事をする機会があり、雑談をしていたら「そろそろパートナーが欲しいと思っている」という発言があり、ご両親が「ええ?そんな気になってたの?」ということがあった。

ところがこういう場面は、日常かなりの割合で見られるようだ。

自分の経験でもそうだが、例えば親子で「将来についてはどうするつもり?」とか「仕事やパートナーはこれからどうしていくの?」というような話を改めてする機会はかなり少ない。

むしろ友人や居酒屋友達などとは平気でそういう話をしたりするのに、だ。

 

そしてこれは「触媒効果だな」と思った。

欧米人ならともかく、自分たちは「改まった話」を親しい間だからこそしないらしい。

そしてそれが露見するのは"第三者"が介在したときなのである。

 

例えば老後の「面倒見の圧力」を子供にかけたり、また子供たちはそれを受けて互いの事情や義務感を感じるところもあるのはよくある話だ。

けれど「どんな老後を過ごしたいか」とか「そのためにして欲しいこと」をあまり具体的には発言しないことが多い。

これは「濃い人間関係のせい」だろう思う。

お互いの思いやりや柵(しがらみ)が自由な意見交換を阻むのである。

時には衝突だってするだろう。

 

なので、たまに意識して「家族と親しい友人」の組み合わせで、あるいは「夫婦(カップル)と親しい人」のセットで歓談してみることは、互いの意思疎通にはとても有効な手段だと思う。

 

親しき仲も、お互いに色々とあるのだ。

 

 

潜る本音(1)

*[次の世代に]

近しい親兄弟が「互いが何を考え、どうしたいと思っているのか」ということについては案外知らないものだ、という話。

自分たちは幼少時には、養育されている親の顔色は少なからず伺うし、何かにつけ口を出す親も多い。

親の期待も含めて何らかの圧を感じた人は多いだろう。

なので親世代が「同調圧力」を正しい方向性だと考えていると、どうしてもそんな方向に向いていかざるを得ない時代だった。

 

自分の世代はそんな「昭和の同調イズム」の多分最後の世代で、昭和50年(1975年)以降の人たちはもうあらかた気付いているように見える。

もちろんそれ以降の世代の人たちは、かなりはっきりと「既定路線」からは外れて自分なりの行く先を探っているようだ。

 

決まった正解がない道は、慣れない人にとっては不安だらけで心配が多いと思うけれど、大人たちがきゃあきゃあと囃し立てる流行りのキャッチフレーズに惑わされずに「手探り」デイいいから自分だけの道を探り当ててもらいたいと思う。

これまでの既定路線から外れていく人たちを見て「ドロップアウト」的な見方をする人はずいぶん少なくなっているだろう。

 

自分の周囲の会話を聞いていても「大手から転職する? なかなか面白そうじゃないか」というような空気になってきている。

(つづく)

 

芸術の起こり

*[ウェブ進化論]表現したいものを考える。

特に音楽の分野で思うのだけれど、今の自分たちは「超一流のプロのライブとか録音とか」に自分たちは簡単に接することができる。

ネットの恩恵を受けて尚更そういう機会は増えている。

一流のオーケストラやソリストの演奏もかなりの量がネットに上がっている時代だ。

 

そしてそうした「お宝」が増えるにつれて、自分たちのアウトプットは鈍っている。

もう一流の芸術に簡単に触れられるから鈍感になってしまっていないか。

その昔なら十年や二十年に一度しか聴けなかった音楽が、いつでも再生できる。

 

トップクラスの芸術家の多くが「ライブの意義」を大事にするのはその辺りに理由があるのではないだろうか。

昔は表現する「楽器や楽譜」すら手にすることが難しい時代に、それでも芸術を志向した人たちのマインドと、現代のように海外とのリモートレッスンが高速回線で準備されているのとでは心構えが違うのも無理はないのかもしれない。

 

昔の寺子屋時代の「写本」よろしく、今の便利な時代はありがたいけれどその分「大事だと思う有り難味のテイスト」を著しく損なってしまっているだろう。

どんどんいい演奏を聴くばかりで「自分がどう表現したいのか」を考えていないことに最近気がついた。

テクニックがどう、楽器の性能がどう、という前に「自分は何を表現したいのか」を問うことが必要なのだと気がついた。

 

やっぱり芸術は奥が深い。

次の高みに

*[ウェブ進化論]アウトプットの意味について。

今のネット時代、よく「インプットの洪水とか過剰」という話題をきく。

フェイク情報も含めて膨大なインプットに対して自分たちは思考停止になっている、というような指摘だ。

確かに得られる情報は何倍にも増えたし、だからこそ選別も難しくなっていると思う。

落ち着いて一冊の本を読むよりもネットの検索で断片的な論説を読んで納得してしまうことも多い。

(自分が大して読者の多くないブログを書いているのも、そうしたことに原因がありそうだ)

 

濃淡の偏りの激しい、あまりにも多くの情報に接して「一体自分の意見はどうなのか」ということを自分で見失いそうになる。

他人に聞かれて「インプットした記事のデータのいくつかをそのまま加工して話す自分」ということには恐怖を覚える人は多いだろう。

それこそAIで充分代わりになるだろう。

 

「自分ならではの意見」がますます埋もれてしまう時代になっている。

もそこで妙に「自分らしさ」を意識するのもおかしな話である。

 

自分がこれまでに経験してきた経験とか、蓄えて理解してきた知識をミックスして「ようやく自分なりのアウトプット」を出せるかどうかがこれからの人の価値なのだ。

 

また一段、自分たちも進化を迫られているのではないだろうか。

 

経験値の教え

*[ウェブ進化論]行きたいよりも行くべきところ。

よく「選択に迷ったら苦しい方行け」といわれる。

けど実際はそんな気になかなかなるものではない。

というか、なんで好き好んで「苦しい方」へ行くもんですか、と思う。

楽がしたいですよ。

楽が、と。

 

ところが歳を取ってくると、それが「案外本当のことだなぁ」と思えてくるから不思議だものだ。

本当に苦しい状況に自分をおかないと、なかなか人は頑張って本気を出さないものだ、ということを知ってしまうのだ。

そんなに頑張らなくたっていいじゃないか、とも思うことがあったけれど、実際には「そういう挫折や苦労」があったので、その後いろんな力をつけたのだ、と思うことがたくさんある。

 

結局、"選ぶのは自分"なのだけれども、ぬるま湯ではなく「自分をどんな環境に置くのか」という"冷めた判断"をすることが、最も重要なのだ。

「迷ったら苦しい方へ行け」というのはそんな「楽をしたい自分」ではなく、「本当の行き先を考える目」を持つということなのである。

 

「船長の目と船員の目」といったところだろうか。

自分のことであれ、他人のことであれ。

そんな「本当の行き先」を考えることが一番重要。

 

そして「苦しい方へ行く」というのは多くの場合、正解なのだという教訓である。

さて。

自分の行き先について、まず考えてみましょう。

 

 

その先のイメージ力

*[ウェブ進化論]よくないことこそ。

よくコンサルティングの業界等では「制約条件は解除の対象」などという。

つまり課題が見つかれば、それは必ず解決できるものだという考え方のことだ。

それを少し言い換えると「身の回りのよくない事は、良くなるためのネタである」といえる。

 

自分たちは何か困った事が起こると、ついその度に「それを嘆いたり腹を立てたり逆恨みしたりする」という感情的な生き物だ。

が、その"よくないことはいいことに変わる"ことにはなかなか気づかないものだ。

 

何せ「よくないこと」が自分の周囲に発現したのである。

その発現したよくないことは、きっと何かの「よくない組み合わせ」とか「よくないことの繰り返し」とか「よくない方向への舵取り←最悪」だったりするだろう。

それが「水面下で致命的なことになる前に、目に見えるところに現れてくれた」というのはなんという幸運かと言えるだろう。

(万一致命的になってしまっていても、大抵は「そこからのやりよう」はあるものだ)

 

魔法が使えるわけではないから、ウルトラCで解決する術などないけれと「よくない相手」はもう目に見えている。

悪いニュースはチャレンジの相手なのだ。

つまり、むしろ「よくないことをどんどん探し」て「どんどん良いことに変えて行く」くらいのメンタルを持てば周囲の景色が変わるだろう。

 

何より普段の気分が良い。

見直しを身につける

*[ウェブ進化論]結果のためではなく。

世間ではよく「結果を出せ」とか「結果が全てだ」などと厳しい言い方をする。

「一生懸命頑張ったんですが…」なんていうと、たいていは結果を出せ、と言われるのがオチだ。

自分たちはそれほど結果というものに引きずられているらしい。

そしてついつい「結果至上主義」でもう結果さえ出せば、何でも許されるというような空気になることも多い。

そうすると組織内の空気はギスギスし、マナーも何もなく優しさもかなぐり捨てて「結果に向けてひた走る」ような人が出てくるものだ。

当然ながらそういう組織は居心地がよろしくない。

 

これは「結果が目的化した」から起こる悲劇である。

なのでバランスを取ることが重要だと思っている。

結果が出た人には「プロセスの改善」を考えてもらい、さらに上の線を想像してもらう。

 

そして結果が出なかった人には「一つ一つのプロセスの見直し」をしてもらうことを考えたい。

自分のこれまでを振り返っても、「なんとなくの感覚」でしていた作業というのは、一つ一つを後から見返すと「失敗の重なり」が分かることが多いものだ。

 

大事なことは「そんな見直しを習慣にできるかどうか」ということだろう。

ああここにも7つの習慣

 

そしてそしてそんな材料は、今の自分の周囲にもたくさん、そこいら中にあることにも気づく。

負荷と免疫

*[ウェブ進化論]負荷が力をつける。

到底返せそうにない億単位の借金を背負ってしまった人が、その後の頑張りで復活したという話はよくある。

自分もそういう経験があるし、親しい仲間にもそんな人は割といるものだ。

 

つまり自分たちは「かけられたた負荷」に応じて自らの反応を決めている生き物、ということなのかもしれない。

おそらく「億単位の借金を背負わなかった人」なら、突然発奮して何かを始めるということはなかっただろう。

だってそんな事件が、そもそもないのだから。

 

だとすれば自分たちはそんな「外部からの刺激」で大きく変わる生き物なのだともいえる。

平坦な道をそのまま歩いていれば、さほどの刺激もないはずだが何かの「強い上り坂」とか「落とし穴」にハマってしまうと、一気にモードが変わるのだ。

 

「平和に大した苦労もなく過ごしていく人生」は悪いものではないと思うが、人生には「何かの挫折」は付きものである。

その時に、そのままギブアップしてしまうのは勿体ないというものだ。

 

それほどの"切った張った"ではなくても、多少の起伏を経験しておくのは大事なことなのだと思う。

あえて借金をして苦労したりする必要はないけれど、目の前に訪れる試練を「避けずに乗り切る」という姿勢は準備しておいた方がいいだろう。

 

案外、すぐにそんなチャレンジがあるかもしれないから。

次の世代に

*[ウェブ進化論]社会人のあと。

三十歳以上の人は自分の二十代の頃を思い返して欲しい。

まったく、「未来への不安」よりは「ぼーっとした可能性」しか見えていなかったと思う。

要するに「時間がなくなることの不安」というのは全然なかったのだ。

 

それが四十代くらいになると少し「ん?」という感覚も頭をよぎるが、まだまだ「終わりの予感」というのは微塵もリアル感はないだろう。

自分も四十歳なんて二十代、三十代と何も違わないゾ、と思っていたことを思い出す。

 

そして六十歳。

世間で言う「定年の年代」になってようやく「社会人ってもう終わりか?」という現実と向き合うことになる。

つまり六十になるまでは、そういう「淡々と迫る節目」については意識できないのだ。

むしろ目を背けていると言った方がいいのかもしれない。

そしてそのまま社会人のキャリアが一旦終了することになる。

こんな当たり前のことが平成の時代からあまり共有されてこなかった。

 

これまでの「リタイア後の人たちは表舞台から忽然といなくなる」ということがようやく問題になり始めているのが今の時代の特徴なのだと思う。

「定年でお終い」の時代から、ようやく「定年後のやりたいこと」へと話題が移りつつある。

 

当たり前のように「六十代以降の生きがい」を考える時代になるだろう。