世界遺産。

小笠原諸島と平泉が世界遺産に登録されました。
平泉に関しては復興の象徴もしくは起爆剤として期待され、このタイミングでの登録は、観光などの面から被災地にプラスの影響をもたらすものと願ってやみません。


自分の修士研究に直接関係があるわけではありませんが、最近いろいろ考えている「風景」と、この「世界遺産」をちょっと関係づけて考えてみたいと思います。



写真はちょうど一年前。スイスから帰国してくる直前に行ったイタリア南部の町です。
上からアマルフィ(1997)、アルベロベッロ(1996)、マテーラ(1993)。
どれも文化遺産として世界遺産に登録されているところです。

風景発見プロセスにおいてこの世界遺産を考えてみると、
個人によって発見された風景が、ある地域内においてや特定の学者や興味の範疇においてその良さが共有され、社会・集団表象としての風景の型ができる。さらに、それが人類普遍的な価値を有するものとして、簡単に言うと永久保存しようとする制度がこの世界遺産です。


一見ポジティブに見えるこの制度について、自分は少しネガティブなニュアンスの印象を抱いています。
ある限られた人たちでその良さを共有してきたものを、無理くり人類全ての人に普遍的な価値を持つものとして表に出される少し哀愁すら感じてしまうそのプロセス。
というのも、自然やもう使い物にならなくなった古い建物などの、近代化のための人間による破壊行為からそれらを守るためのある種の免罪符的採択であり、世界遺産という華やかなイメージには、限られた人たちで共有してきた風景の"危機"が内在しているという点についてである。


人間による開発行為だけではなく、その風景を守ってきた住民の生業の担い手の不足であったり、建築の場合、維持管理能力が担保できないなどの様々な危機がある。
しかし、その危機から風景を守るという目的以上に世界遺産登録される意味は登録地において大きい。「世界遺産」という箔が捺されることで、その価値が一般にもわかりやすいものとして表象し、観光という点で見るとそれを目当てで人が訪れ地域振興などに一役買ってくれることは容易に期待できる。


現在世界遺産登録を目指す堺市百舌鳥古墳群について考えてみる。
堺市百舌鳥古墳群世界遺産登録されるとどのような影響がわが町堺に出てくるだろうか。
観光客が増えるだろう。
観光客が増えると観光案内所やお土産屋、休憩所などが必要になり、それで商売もしようとする人で活気づくだろう。
人が多く訪れるとその場所の不動産的価値も上がり、ショッピングセンターの進出やおしゃれなショップができたりして堺市中心部が一層盛り上がってくるだろう。
市内中心部が活気づくと近郊のニュータウンなどの入居希望者も増えるかもしれない。


なんて感じでプラスの効果がいろいろと期待できてそこに住んでいる人間からすると良いなあと思うこともある。


しかし自分自身そこで思考停止してしまっては風景を再考している意味がない。
もうちょっと考えてみる。


単なる世界遺産という言葉のもつ単語そのものの魅力だけで人が集まってもそれは長続きはしないだろう。短期的な地域振興に結びついても次第に飽きがきて、結局都市の空洞化などの問題に至るという現在地方都市が抱えているような問題の循環を歴史的にループするという結末は少し予想できてしまう。対処療法的な施策は考えうるだろう。けども根本的な解決を生むためには根本から、世界遺産になる前のその限られた人達によって見出され共有されてきた風景の価値について考えなくてはならない。


写真でお見せしたイタリアの3都市を訪れる自分自身のモチベーションとしてあったのが、単に世界遺産として有名だからというのではなく、そこにしかない唯一無二の存在としての風景があるからと回想していて思う。そこに住む人達の他にはない生活の痕跡だったり、特徴的な地理環境などそれらの重層的な重なり合いによる半ば自然発生的に形成された風景が、来訪者の感動を生むことに繋がっているのではないかと。その価値は、世界遺産という普遍化された価値ではなく、見る人のバックグラウンドや素養に大きく左右されるものとして前回言及した「風景はエリート層によって理解される」ということに関係しているものではないだろうか。
エリートというのは何か排他的な一部上流階級といったニュアンスがつきまとうが、一般に解釈されるそのようなものというよりかは個人個人の意識の問題なんじゃないかな。


普遍化された箔捺しによる価値の認識であると、レルフの言うところの没場所的なディズニーランダリゼーション(テーマパーク化)された観光地として、社会が様変わりすることで価値が左右され、衰退の一歩を辿ってしまう可能性があるように思う。


堺の古墳世界遺産登録に関して言うと、どのようにすればよいかということを今修士研究でいろいろ模索している段階ということと、背景にある大きな枠組みでの「風景」についてもまだ自分自身勉強が足りていない部分もあるので、これから考えたり思ったりしたことは躊躇なく文章に起こして頭の整理をしていこうと思う。