TRPGセラピーの問題点

TRPGで喧嘩をするのは支援ではない

今日はTRPGゲームファンのxenothさんから、ラビットホールドロップスへの危... - RabbitHole Drops | Facebook
伏見氏から返答の一部をいただきました(まだ続きがあるそうです)。


これを読む限り、ラビットホール・ドロップスのルール間の矛盾は意図的なものであり、ゲーム中にそれを巡って喧嘩や仲違いが起きることも織り込み済みということのようです。


さて、私の方の意見ですが、「TRPGで喧嘩をしてしまったことが、あとで貴重な体験と思えるようになる」ことはあるし、それはそれで良いと思います。
その一方で、「TRPG中の喧嘩」を推奨するデザインは、非常に問題があると思います。


友達との喧嘩は日常起きることですし変に増やす必要はどこにもありません。

 どの結果でも「支援」は成功しているのです。つまり、このゲームを遊ばなかったら得られなかった経験を、「ダイレクトではなく、架空世界の冒険という体験として」そのプレイヤーに経験させることに成功しているのです。

「うるさいよ、じゃあいいよ。もう一緒にゲームなんかやらねえよ!」
というのは、現実の喧嘩であって、「ダイレクトではなく、架空世界の冒険という体験として」経験するわけではありません。
友達との仲違いや口喧嘩は、限りなく現実のものです。
そして、現実の喧嘩が起きたことを「支援成功」というのは、あまりにも無責任です。
その喧嘩=支援成功に対して、誰がどう責任を取るのですか?

 そして遊びの中でのトラブルは、現実のトラブルよりは解決が容易であります。これがプレイセラピーの大きな機能です。

「一緒に遊ぶ」というのは現実です。TRPGを遊んでいる最中に起きたトラブルは現実のトラブルです。そしてそれは喧嘩や仲違いやいじめにつながります。
毎日、クラスメイトと顔を合わせる学生にとってもそうでしょうし、社会人になったらなったで人間関係を選びやすくなる分、趣味で喧嘩した相手と仲を修復するチャンスは減ります。
私自身の経験ですが、「騎士が戦闘して何が悪い」といった思想的な対立は、本当にあとをひきます。


プレイ時間が1時間だからといって、喧嘩や対立がその時間内に終了するわけではありませんから、1時間なら大丈夫ということはありません。

 ほのぼの、童話的、ということを目指すように言われながら、具体的な支援はない。
 夢中になって残虐になっちゃうこともありうるのに、それはダメだよ、としかない。
 目標は提示されているのに。
 抑制や努力をしないと達成できない。
 これ、狙ってやっているところです。
 そこはゲームシステムの役割ではない、役割にすると良くない、と考えているのです。

ゲーム中の目標がしっかりしていない時、単にGM(あるいは声のでかいプレイヤー)が考えた「正解」に、他の人が振り回されるだけのゲームになることをどうやって防ぐでしょうか?
答えは、防げないというものです。
結局、それは、GMの空気を読むだけのゲームになります。

 RPGが判断と選択のゲームであるなら、「失敗」の可能性を常に待っています。
 セッションは「失敗」してもいいのです。
 パーティ全員が楽しめなくてもいいのです。
 いい工夫なんか思いつかず、力押しで終わりにしちゃってもいいのです。

 でも、いつか、みんなが満足できて。
 すごくいい工夫を、その場で思いついて実現して。
 そういうセッションをできたら、すばらしいことになりそうです。
 むしろ最初から成功しちゃ、いけないのです。
 成功はオートマティックではありません。

ある目標があって、その道筋が見えている中で努力して失敗することは、「次はうまくやろう」といった反省やモチベーションにつながります。
しかし目標も努力の方向も方法論も見えなくて、何をどう反省すればいいかわからないのなら、それは単なる不愉快な経験です。
あるいは、「GMの空気を読もう」という決心を育てるだけになります。「皆でより面白いゲームを作ろう」という方向にはゆきません。


「苦労を通じて成長する」こと自体は素晴らしいと思います。
しかし、それは全員が楽しみ、楽しませようとした上で起きる苦労であるべきです。


その全員には当然ながらGMもデザイナーも含まれます。


GMがプレイヤーに対して、「苦労させてやる」というセッションは、単なるGMの自己満足です。
デザイナーがGM、プレイヤーに対して「苦労させてやる」と思うのも同じです。
それを「支援」と呼ぶのは深刻な問題です。


伏見氏は、おそらく「やりがいのある苦労」と「単なる悪意」を混同されています。
デザイナーやGMは「やりがいのある苦労」を準備すべきで、そこにおいて「失敗」もあって良いですが、「ゲームの目標を失敗」ではなくて、セッション自体が失敗するようなことを仕掛けるのは、大いなる傲慢です。

プロの批判その1

私がTRPGをセラピーとして使わない理由: Analog Game Studies
○5) 批判4:児童の教育・思春期のトレーニング・うつに悩まされている方の自己実現SST目的にTRPGが使われることは、特に有利でない。
○8 )TRPGはセラピーとして大きな欠陥がある
○10)対人援助として趣味を扱い、工夫するそのこと自体が、対人援助性を損なう
などが、強く当てはまるでしょう。


自己実現において、TRPGは特に有利ではありません。
TRPG的手法のセラピーはすでに存在するので、普通のTRPGを工夫する必要はありません。なぜ、「ダイレクトではない、架空世界の冒険という体験」がセラピーの役に立たないかもここに書いてあります。
「ラビットホール・ドロップス」は、対人援助を強く意識し、プレイヤーもそれを意識するからこそ、対人援助性を損ないます。

プロの批判その2

このあたりはしかし、余談かもしれません。
仮に、ラビットホール・ドロップスがルールと世界観の一致したわかりやすいゲームであっても、「児童支援・障害者支援TRPG」までの距離は遠いからです。
その理由もすでにプロによって指摘されています。
AGS 記事「CBT的アプローチのセッション運営」は取り下げられるべきであると考えます: プレイレポートbyたきのはら

・医療類似行為を一般に応用可能であるかのように紹介してはならない


・病者との関わりにおいて、専門知識を有しない場合に有用なのは、基礎知識ではなく受容の態度であるが、知識の重要性ばかりが説かれている


・病者との関わりに言及する文章に、誤読の余地を許容してはならないが、表題の論は誤読の余地が多々ある


・病名や疾患メカニズム、および対応技術の安易な記載は、不適切な診断的行為、医療類似行為を招きうる


・相手をコントロールしようとする態度への警戒を含まずに知識や技術のみが記載されている。あまつさえそのような態度を取ることを示唆するような構成になっている


・最終段落は「系統的な訓練を受けなくても“上手いゲーマー”となることで病者に有益な環境を提供できる可能性があるからそうしろ」と読める

医療類似行為をTRPGで行えると紹介しています。
病者との関わりで持つべき受容の態度は、素人のゲームマスターが身に着けているものでは到底ありません。「受容的な態度でマスタリングしよう」というのとはわけが違うのです。
病名および対応技術が安易に記載されており、不適切な診断的行為、医療類似行為をまねきます。
伏見氏の「試練を与えよう」という態度は、お気づきでないでしょうが、相手をコントロールする態度そのものです。
系統的な訓練を受けなくても、”うまいゲーマー”ですらなくても「ラビットホール・ドロップス」を遊ぶことで病者に有益な環境を提供できると読めます。


児童や障害者の「支援」をTRPGがうたうのであれば、思いつきや楽天的な思考のみで作ってはなりません。