高橋征司『N41°』―手術台の上のミシンと雨傘のような音楽―

N41°

N41°

  • アーティスト: 高橋征司,Seiji Takahashi
  • 出版社/メーカー: Te Pito Records
  • 発売日: 2012/05/23
  • メディア: CD
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高橋征司のデビューアルバムとなるこの『N41°』を聴き終えた瞬間に想起されたのは、19世紀の詩人ロートレアモンによる次のような一節だ。

「手術台の上でのミシンと雨傘の偶然の出会いのように美しい」

この一節は、第一次世界大戦後のパリで隆盛を誇ったシュルレアリストたちによって特権的に扱われ、その芸術領域における種々の実践を圧縮的に要約するものとして知られている。そしてここで強調されているのは、通常では決して交差することのない遠く隔たった複数の〈現実〉が不意に並置され、そのコンテクストが異化された際に生じるある種の劇的な効果である。

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この『N41°』に収録された楽曲たちに通底するのは、〈音〉そのものへの深い慈しみの感情ではないだろうか。つまり、それが楽音であれ電子音であれ環境音であれ、私たちが忘れかけていた美しい記憶の断片を呼び覚ますような豊穣な響きを伴った〈音〉だけが極めて繊細な手つきのもとで選別され、その一つ一つが仄白い閃光を放つほどに丹念に磨き上げられている。そしてそれらの〈音〉たちが「作曲への意志」とも呼ぶべき厳格な制御のもとで精密に束ねられた瞬間に立ち現れる感覚はまさに未知の領域に属するものだ。

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たとえば、「雨」の音がある。この「雨」の音は、あるとき偶然的に切り取られた個人的な時間であるかもしれない。しかしその「雨」の音は、他の楽音、電子音、環境音と交錯した瞬間に、私たちの記憶の連想系を発動させ、ある種の普遍的な強度を伴った時間へと転化される。

──この「雨」の音は、あのとき私たちが母親に手を引かれながら歩く買い物からの帰り道で聴いたあの「雨」の音かもしれない。

──この「雨」の音は、あのとき私たちが待ち合わせの時刻に遅れた恋人を待ちわびながら聴いたあの「雨」の音かもしれない。

──この「雨」の音は、あのとき私たちが愛らしい笑顔をふりまく我が子を抱き寄せながら聴いたあの「雨」の音かもしれない。

過去と未来、現実と虚構、伝達可能なものと伝達不可能なもの。それらの境界を撹乱させる濃密な皮膚感覚を伴った記憶たち。その錯綜の直中から明滅的に浮かび上がる無数の心象風景。そうした要素が織りなす特異な磁場こそが、この『N41°』に唯一無二の魅力を付与しているように思われる。

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エレクトロニカと呼ばれる音楽が広く浸透しつつある現在において、日常に溢れる環境音の中に豊穣な響きを伴った〈音〉を再発見するという振る舞いは、もはやそれほど風変わりな光景ではない。しかし、それらの〈音〉を単に聴取することと、それらの〈音〉を実際に音声ファイルとして切り取ることの間には、容易に乗り越えることのできない断絶が存在する。その意味で高橋征司は、鋭敏な“ハンター(狩猟者)”のようでもある。そしてその過程において採集された〈音〉の一つ一つは、飽くなき実験の果てに極限にまで磨き上げられる。その意味で高橋征司は、明晰な“サイエンティスト(科学者)”のようでもある。さらにそれらの〈音〉たちは、透徹した「作曲への意志」に貫かれた領域において、楽音、電子音、環境音の境界を融解させながら半ば偏執的な周到さのもとで組み合わされ、偶然とも必然ともつかないある種の超現実的な音像を私たちのもとへと提示する。その意味で高橋征司は、孤高の“アルケミスト錬金術師)”のようでもある。

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楽音が生み出す叙情的な和声、電子音が生み出す官能的な律動、環境音が生み出す重層的な音響。それらの偶然的/必然的な出会いによって生成される箱庭的小宇宙。『N41°』には、ポストクラシカルやエレクトロニカといった既成の区分では名指すことのできない、21世紀音楽の新たな可能性が暗示的に刻み込まれている。

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なお、この記事は、『N41°』の高音質配信版(24bit/48kHz)を幾度もリピートしながら書かれたものです。本作に潜在する豊穣な〈音〉を存分に堪能する上では、こちらもぜひお薦めです!
http://ototoy.jp/_/default/p/28560