遠藤周作『「深い河」をさぐる』

 遠藤周作の小説『深い河』にちなんだ対談集。「おくりびと」の本木雅弘遠藤周作が「インドは何を教えてくれるのか?」という対談をしているのに興味を覚えて、読んだ。これが面白かった。初出は、いまはなき雑誌「マルコポーロ」の1994年2月号だから、15年前の対談。当時から、インドとか、生と死について本木は関心を持っていたのだな。こんなドッキリするような話もしている。

本木 でも、ときどき、何かちょっと恥ずかしいですけれども、ロケ先なんかで、すごいきれいな青空にちょうど雲がバランスよくかかっていて、それを見ていてむしょうに死にたくなったことが何度かあるんですよ(笑)。
 別にそれはあまりにもきれいな空と、いま悩んでいる自分とのギャップが悲しくて・・・・・・というのではなくて、ホカホカとして何かとても気持ちよくて、自然と死にたくなっちゃう(笑)。これで今、ちょっとしたきっかけで、目の前にナイフでも転がっていれば、スッと手首が切れちゃうんだろうなと思うことがある。

 そういうことを考えるタイプだったんだなあ。「おくりびと」は昨日、今日思いついたものではなくて、15年間の熟成があったのだ。遠藤と本木の間で、こんな会話もある。

遠藤 (略)『深い河』という作品は、三本の小さな川が、大きな生命の河に合流する話です。三本の小さな川というのは、自分のやっていることが偽善ではないかとか、偽悪ではないかとか、そうやってこだわっている小さな自分です。そういうものがやがて、大きなものに委ねられていく自分に変わってゆく・・・・・・。
本木 その堂々巡りの感じっていうのは、いつ頃まで続くんでしょうか?
遠藤 四十五歳ぐらいまではあるでしょうね。自分のやっていることについて自意識があるからね。
本木 それまでの期間に、だれしも人に言えない秘密なり、その人にしかわからない裏舞台なりを経験しますね。『深い河』の登場人物はみな、戦争体験があったり、強烈で、衝撃的で、深い体験があったりするじゃないですか。ぼくはそういう大きな出来事というのを体験しないで、四十歳後半を迎えてしまいそうな気がするんです。そういう体験がないと、「大きな河」というのは感じとれないものでしょうか?
遠藤 いや、私はそうは思わないんです。戦争体験というと深刻な感じがしますけども、体験の量が大きいだけで、たとえば日常生活で、友達を裏切ったり、結婚生活に失敗したり、恋人と死に別れたり、重要な選択に向き合わされたり、質的にはけっこう同じようなものの繰り返しではないかと思うんですよ。(略)
 大きな河に流れ込めるかどうかということは別に戦争体験がと関係ないんです。結局、自力ではどうにもならないことが、いくつもいくつも出てきて、それが集積してゆく。しかもそれがただ自分だけの例外ではなくて、だれしもそうだということがわかってくると、小さな自分を包んで、しかもプラスもマイナスも肯定してくれる大きな河というのが欲しくなってくるわけですね。

 師と弟子の対話という感じだなあ。本木はウィキペディアによると1965年12月生まれだから、いま43歳。遠藤の予言はあたっていたのだな。45歳が近づき、「大きな河」が見えてきたんだろうなあ。
 このほか、青山圭秀との「奇跡は何を教えてくれるのか?」、カール・ベッカーとの「人は死から何を学ぶことができるのか?」(臨死体験)、笠原敏雄との「前世は本当にあるのか?」、湯浅泰雄との「現象は偶然かそれとも必然か?」、木崎さと子との「何が人を神に向かわせるのか?」が面白かった。