週末の記録



映画「はじまりのうた」(感想)を見に行った際に初日特典でもらったカップケーキ引換券の期限が迫っていたので、マグノリアベーカリーへ。二人分のクラシックカップケーキ、バニラとチョコレートを選ぶ。
引き換えだけじゃ悪いような気がしたので、ホワイトデー期間限定の(ってニューヨークには無いのについ・笑)「ジュエル」を注文。クリーム部分が落雁のような甘さで、コーヒーが無いときつかった。でも見た目、やっぱり可愛い。



イーグルにて、同居人は名前を忘れてしまった(笑)お酒、私はラスティネールというカクテルを。運ばれてきてから、そういやウイスキーベースのカクテルは苦手だった…と思いきや、いいお酒だからか結構するする入ってく(笑)ステーキサンドがとても美味しかった。

シェフ 三ツ星フードトラック始めました



色んな要素が盛り込まれており面白かったけど、女の描き方が私が一番苦手な類のもので、女が出てこないうちは楽しいという、すなわちこれも多くの古典落語と同じで、男だけが出てくるうちは登場人物を「人間」として見られるけど、下手に女が出てくると、その役割が決まっているので「女」である自分を意識するはめになってしまうという、たまにあるタイプの映画(笑)


「Chef」がタイトルである意味が分かるシーンがいい(主人公のタトゥーに字幕が付く場面)。冒頭の軽快な料理シーンが、しばらく後のオーナーとの会話によって、振り返ると感じが違って捉えられるのも面白い(あの場面で彼は「シェフ」だったか?)
SNS絡みの描写も楽しかった。冒頭、有名俳優演じるレストランのオーナーは主人公に対し「俺に黙って勝手にツイートするな」と怒りを表す。自分の「ボス」でいるということは、SNSで公私を統一できるということなんだなと思う。「評論家」問題を、「あんなこと言われたら誰だって傷つく!」というびっくりするほどシンプルな一言で解決してしまうのも面白い(主人公は、「作り手」じゃないくせに!と言いたいわけではなく、誰かを傷つけることはよくないと言いたいのだ)


主人公が「キューバサンドイッチ」に出会う場面で、男三人と同席する元妻だけがサラダを注文している。夜にああいうもの食べてたら私みたいに肉が付くだろうから、ソフィア・ベルガラのような体の女性がそうするのは「リアル」な描写とも言えるけど、「映画」だから違う意味があるのかなと思い気になった。もし「リアル」ゆえなら、彼女は「今後」彼の料理を食べることがあるのだろうか?これがこの映画を見ていて一番引っ掛かった点。
同居人いわく「子どもの頃から食べてたものだから飽きてるのかと思った」。ちなみにスカーレット・ヨハンソンが主人公に料理を振る舞われた時の表情も「不味そうで、嬉しくないか、彼の腕が落ちてるのかと思った」。すなわちこの映画に(メインキャラクターとして)出てくる女は「食」に対して熱が無い…というより、この映画では「男」と「女」とがはっきり分かれており、女は男とは熱を持つ対象やその持ち方や表し方が違う、というのが正確に近いかな。


見終わって話していたら、出てくる料理に「あまりそそられなかった」と言う。実は私もそう。これは扱われる食べ物の種類の問題かな。でもあの屋台村のようなところには行ってみたい!「俺の」シリーズとか、やっぱり楽しいもんね。
でもって、ニューオリンズが舞台の「トレヴィの泉で二度目の恋を」(感想)に続いて、本作にもカフェデュモンドのベニエが。あちらは住み慣れた町で、こちらは美味しいとこつまみ食いしながらの旅の途中にて。今年のうちに三本目のベニエ映画が見られたら嬉しいな(笑)

プリデスティネーション



原作となっているハインラインの短編小説「輪廻の蛇」は未読。「タイムトラベルの矛盾から生まれた者」の、永遠の孤独の物語。


イーサン・ホーク、昨年「ビフォア・ミッドナイト」を見た時は、問題を解決せずにごまかそうとして(彼が「家事をしない」ことが問題なのに、「ロマンチック」な言動でうやむやにして映画が終わる)糞と呼ぶのも勿体無い程の奴だな!と思ったけど(そういう映画なんだと言われそうだけど、あまりに一体化してたので…笑)本作の彼は良かった。


女は高いヒールのパンプスに男はスーツという世界から、「Predestination」というタイトルとイギーの雄叫びが同時に出て、違う意味で統制されている「1970」年へ…というオープニングに惹き込まれた。大好きな「全ての場面が連携している映画」、いわば究極の「全てが繋がっている映画」だったけど、繋がり過ぎており、私の頭じゃそこから外へと出られず味わい尽くせなかった。実際に起こる「と思うことが出来る」物語じゃないと、疑問だらけになってしまい没入できないんだと思う。


冒頭のバーでの、イーサン・ホークサラ・スヌークのやりとりが面白い。わざとらしいほど全身を使って酒を注ぎものを食べるイーサンと、表情ばかりがうごめくサラ(顔が魅力的過ぎて目が離せない!)の対比。青年が語る回想シーンの合間に挿入される、二人の体勢の変化。始め閉じたカウンターの中と、それに沿った外に居たのが、そこを出て、押したり引いたり、それが握手に至り、やがて左右対称の「対」になる。


「宇宙慰安婦」選考の面接でのジェーンの態度は、これまでとあるシステムの中でfreakとして差別されていたのが、初めて外のシステムに接して解放されたんだろうか。しかしそこには更に大きな差別があり、そのことは、「くだらない喧嘩」の際に男性コーチ?にはがいじめにされたジェーンが身動きできなくなる画に表れているように思われた。映画における「宇宙」への憧れとは、そこにfreakという概念が存在しないことによる…なんてことは、宇宙に興味の持てない私以外の人は皆、とうに気付いてるんだろうか。


(以下「ネタばれ」あり)


ジョンがジェーンに「会った」時、「こんなに綺麗だったのか」と驚くのは何故か?閉じた円環の中でも(この場合「心」の)「変化」があるということだ。振り返ると一番心に残っている言葉は、彼が彼女に言い残す「Stay here」。彼の目にはベンチに腰かける彼女が永遠に感じられるかもしれないが、彼女も進み、変化する。「自分」から見れば他者は止まっているように感じられるが、そうではない、そういう話でもあるように私には思われた。