平日の記録



ソフトクリームの季節…にはもう暑すぎるけれども。
シュークリーム専門店シュクリムシュクリのシューソフトはシュー皮がもうちょっと欲しいところ。
通りがかりにポスターを見て注文したヴィ・ド・フランスの塩バニラソフトはとても美味しいけど、とても食べづらい。加えて食べるのが遅いのでカップの中だけど随分垂らしてしまった。


全然季節じゃないけど最近食べたスコーン。
らぽっぽファームの「ポニ・スコーン」はハワイ産の紫芋・紅アロハをブルーベリーやクリームチーズと一緒に混ぜ込んで焼いたもの。お腹がいっぱいになる。
カンタベリカフェのスコーンはいわゆるお行儀のいいやつ。好きなお店なのでお代わりして長居した。

オンリー・ザ・ブレイブ/アメリカン・アサシン


同時期公開のテイラー・キッチュ出演作繋がり、兼、予告から想像していたより面白かったアメリカ映画繋がり。



▼「オンリー・ザ・ブレイブ」は実話を元に制作された映画。ジョシュ・ブローリン演じるエリックが出動前に持ち物を床に広げてチェックする様子に、ベテランのように見えるのに、いやベテランこそああするのかなと思うも車には「訓練中」の文字。どういうことだろうと考えているうちにAC/DCに乗ってプールにアレが下りてくる…という冒頭に引き込まれる。


何度も挿入される、空撮で捉えられた、隊員達が一列になって進む姿は、それ自体が一匹の動物か何かのようで、カメラが寄って「それぞれ」だと分かるのが面白いのと同時に、そこから離れて一人になる場面に胸騒ぎを覚えさせる。この映画にはそこここに一触即発のムードが漂っており、何でもない会話シーンにも危機がそこまで迫っているかのような空気がある。


冒頭、妻アマンダ(ジェニファー・コネリー)とエリックが、バスタブで「どうしたの」「特に話す程のことじゃない、嫌なことがあったんだ」との会話を交わす(その後夫はおおまかなことを口にする)が、私にはこれは、人は家族と居ない時に何をしているのかという話に思われた(エンドクレジットで「本人」を確認すると若くして妻子がいる=「家族を持っている」隊員が多い)。何をしていたの、と誰にも聞かれないのがブレンダン(マイルズ・テラー)なんである。


▼「アメリカン・アサシン」は2010年に出版された同名小説の映画化。まずはディラン・オブライエンが素晴らしく、彼の今の輝きを留めた代表作になるだろうと思った。冒頭に流れるアンドラ・デイ「Mistakes」のメロウさがこの映画の「感じ」を表しているかもしれない。クレイグボンドぽさもあるがゴージャスじゃなく地に足が着いている。私には丁度好みだった。


冒頭の一幕を悪夢として目覚めたミッチ(ディラン・オブライエン)が、ケネディCIA副長官(サナ・レイサン)に「あの体験は訓練では与えられない」なんて非道に推されつつ、スタン(マイケル・キートン)の「お前の目的はなんだ」に対し「奴らを恐れさせ、眠れなくさせてやる」と答えるところで映画に線が一本、きれいに引かれる。ここで惹き込まれた。「殺されても殺す」心意気を実際に見せる特訓風景、ナヴォーナ広場が特に素敵に映らず、実際に行ったら結構狭いのかななんて思わせる(私は行ったことが無い)リアルさ、(「主人公側」の人間の)銃を撃つ時の憎々しげな表情など、色々と面白い。


男の靴下に注目させる映画は面白いものが多いというのが私の持論だけど、本作もキートンの白いソックスからの彼のスーツ姿がいい。山中から「上司」に会うのに昔からあれしか持っていないのを着てきたのかなと思う。この場面を皮切りに彼の愛らしさが垣間見える。誰しもが完璧じゃない。

アイ・アム・タレント



予告編を見た時に感じた通り、いわゆる被写体に撮影者が関わっている…という言い方もそぐわない、人々の交流の記録というのがしっくりくるような映画だった。作品によると、制作・監督としてクレジットされているナタリー・ジョーンズは友人を通じてタレント・ビエラのことを知り、ストリートキッズの彼を自宅に住まわせ食事を作り個人教師を付け、プロのスケートボーダー達と交流できるよう便宜を図る。ちなみに彼女がインタビューを受ける一人として登場した時ふと、「ロード・オブ・ドッグタウン」を撮ったキャサリン・ハードウィックを思い出した。トニー・ホークも出てくるし。


オープニング、監督の趣味らしいピアノの単音が目立つ音楽にのせて流れる、台本を読んでいるかのようなタレントの語りを奇妙にも感じたけれど、そのうち彼がとても抑制された人間なのだということが分かってくる。「学校に居る時は父親に殴られた後か傷を縫った後だったから心ここにあらずだった」、家を飛び出してからも何度も暴行されてきた少年が、「怒りや不安よりも人生には大切なことがある」と自らをコントロールして生きている。


タレントが関わる大人も皆そうで、監督と彼の暮らしの映像からははみ出した熱のようなものは感じられず、二人の間には撮影者・被撮影者という関係ゆえじゃない、落ち着いた距離が常にある。プロのスケートボーダー達も「保護者じゃないから善悪は教えない」なんて言いながら、ただただ交流する。これが彼の性分に合っていたのだろう、そうした関係の末に全てがマッチして走り始める瞬間(に見えるのは映画の作りだけども)の快感よ。


山岳映画、いや山にまつわる映像全般を見ると、これを撮っているカメラマンがいる!と思うものだけど(断崖絶壁を一式背負って登ってると想像する)、この映画ではスケートボード専門のカメラマンの仕事ぶりが見られたのが面白かった(でもって、それを撮っている人もまたいるわけだ)。映像がスケーターにとっていかに重要な要素であるかも分かる。キャリアの長い一人が言う、「映像や執筆など周辺産業はいくらもある、どこかに居場所を見つけて自分の力を最大限いかす、それが(自分の考える)成功だ」との定義が面白かった。