マダムのおかしな晩餐会



見終えてポスターを確認したらロマンティック・コメディを謳っていたけれどロマコメじゃない。分断は分断のまま。しかし喜劇には違いないし、一人の女がパワーを得てさわやかに終わる。


「ルブタンにサイズ8はない」(なくはないが、お前の履く靴はない)と言われ自分の靴を履かざるを得なかったメイドのマリア(ロッシ・デ・パルマ)は、夜中の12時に女主人(原題)のアン(トニ・コレット)に追い払われ裸足になり部屋に戻る。自分の靴でパーティに出たシンデレラは、自分のやり方で未知のステージを歩いた。転ぶだろうという女主人の予想を裏切り、他人を魅了さえした。


「あなたが面白い人間なら、なぜメイドをしているの」
「私がスペイン人の移民だからです」
「アルモドバルやバンデラス(!)はそんなことしていない」
「私は彼に愛されています」
アンには男の名しか頭に浮かばないのか実際そうなのか分からないけれど(いや実際そうなのであろう)、マリアはこの時、愛し愛されることを知り新しい段階に進んでいる。更なる段階も控えているけれど。


鍵となるのは、来るなり紅茶を飲むアンの義理の息子スティーヴン(トム・ヒューズ)。彼女の言う「食べ過ぎない、飲み過ぎない、話し過ぎない」の真逆でいるのはマリアのようでいて実は彼である。常に何かを頬張りお茶を飲み酒をくらって泥酔し、人を混乱させることを言う。それが逸脱できる存在…「小説家」なのだと言わんばかりに。義理の妹に「棒みたいな女は魅力がない」とキスをしてみせるこの人物は、女達の話においてなぜ男なのか?私としては、これを男にしたところに作り手の姿勢を感じた。

ヘレディタリー 継承



まずは音楽の不愉快さに、数年ぶりにお腹が痛くなった(そういう内容なんだからそれでいいのだ)。NG集でも見て作り物なのだと確認して終わりたい映画である。


(以下「ネタバレ」らしきものあり)


窓の外の、百葉箱にしては大きいし白くないなと思いきやツリーハウス、からカメラが引くと部屋の中には部屋がたくさん。アニー(トニ・コレット)が作るミニチュアの模型である。その中の一つに横たわる息子ピーター(アレックス・ウルフ)を父親スティーヴ(ガブリエル・バーン)が呼びに来るというオープニング。チャーリー(ミリー・シャピロ)の棺桶と共にカメラが下がって土の断面が映るカットが印象的で、「ミニチュア感」(「中」の人には不可能な目線)の演出に加え、後にアニーやスティーヴがその下を覗くテーブルやとある人物に呼ばれるピーターの前のテーブルの板など画面を横切る線が悪魔的である。


(ちなみにこの「ミニチュア感によって登場人物を駒のように見せる」って最近どこかで…と思ったら、レイチェル・マクアダムス演じるやはり「アニー」が出てくる「ゲームナイト」だった・笑)


アニーにすれば、不断の努力にも関わらず家族を失い続ける話である。しかも彼らは混乱と不審の中に死んでいったに違いないのだ。こんな事例は世にそうないはずなのに、彼女が吐露する「誰も過ちを認めない!」「うんざり!」といった感情や息子に見せる憎しみの表情は非常に普遍的なものに思われ、人はどういう時に人を憎むものかと考えた。とあるものを夫に確認してもらおうとする姿には、幾多のホラー映画やパニック映画で見てきた同じような場面はもしかしてこれを表現したかったのかと思った。苛々させられるばかりでこういうことだと気付かなかった。


映画が終わるなり、学校はどうするの?と間抜けなことを思ってしまったものだけど(笑)息のできなくなったピーターが友達に「手を握っててくれ」(この世界に留めてくれ)と言うのが心に残っており(同時にアニーの手にとある人物が触れたのを恐ろしく思い返す)、前の席の女子生徒の尻から始まる彼の他愛ない学校生活こそ母が何とか守ってきたものだったのかなと考えた。


さて、トニ・コレット46歳の夫役は、「マダムのおかしな晩餐会」のハーヴェイ・カイテルが79!で「ヘレディタリー」のガブリエル・バーンが68。前者は地位を求めて結婚した女の話だからだとしても、それも含めて、女優の方がやっていくのが難しいということを思わずにいられない。