児童書読書日記

2017-08-18

[]『昭和こども図書館』(初見健一) 『昭和こども図書館』(初見健一)を含むブックマーク

昭和こども図書館

昭和こども図書館

1967年生まれの著者が、自身が小学生のころに読んだ本を振り返った、ブックエッセイです。生真面目な児童文学関係者の評論ではなく、大人の目を意識した優等生の感想文でもなく、ふつうに読書を楽しんでいた子ども読者の素直な本の受容の仕方が語られているのが、この本の特長です。

たとえば、真面目な大人は深刻な社会問題を扱ったよい本だと評価している松谷みよ子の『死の国からのバトン』についてどのように言及されているか、みてみましょう。

小学校時代、本書は「図書室で一番怖い本」として有名だった。読んでいる子はほとんどいない。誰も読んでいないのに誰もが「怖い本」として知っている不思議な本だったのだ。

死の国からのバトン (少年少女創作文学)

死の国からのバトン (少年少女創作文学)

で、実際読んだ著者もまったくおもしろいとは感じていません。著者は、松谷みよ子斎藤隆介*1の「教育的」「戦後民主主義的」な作品に子どもなりに拒絶感を持っていたと表明しています。ただし、松谷作品では『死の国からのバトン』は評価していないのに『ふたりのイーダ』については、そのミステリ的なおもしろさを絶賛しています。つまり、子ども読者にとって重要なのは思想性ではなく、単純におもしろいかおもしろくないかということに尽きるのです。

小学校低学年向けの本の章をみると、『からすのパンやさん』『ちいさいモモちゃん』『いやいやえん』『ぐりとぐら』と、現在も読み継がれている本が目立ちます。世代を超えるロングセラーの底力をみせつけられます。子どものころの読みと現在の読みを織り交ぜて作品に取っ組み合う著者をみていると、特に低学年向けの作品について語ることの難しさを痛感させられます。子どものころのあやふやなおもしろさの記憶を手探りしながら、大人の視点で理知的に作品を分析していく過程はスリリングです。あまんきみこの『車のいろは空のいろ』はタクシー怪談集であるといった、意外な視点の評論もあって読ませます。

紹介されている本にオカルト本が多いのが目につきますが、これも当時の子ども読者の実態をよく表しています。その頃の子どもはオカルト好きが多かったですし、本の好きな子であればなおさらです。正統な児童文学史では語られにくい児童文化の実態を知る上で、とても貴重な資料になっています。

*1:ただし、斎藤隆介らの創作民話に対する「江戸しぐさ」のようだという批判は的外れにすぎるので、反論しておきます。創作民話はフィクションの技法です。フィクションをフィクションとして描いている創作民話と、フィクションを事実だと偽って架空の道徳を説く「江戸しぐさ」とは、まったく性質が違います。

2017-08-15

[]『なみきビブリオバトル・ストーリー』(赤羽じゅん子/他) 『なみきビブリオバトル・ストーリー』(赤羽じゅん子/他)を含むブックマーク

図書館のビブリオバトルに参加することになった4人の小学生の物語を、赤羽じゅんこ・松本聡美・おおぎやなぎちか・森川成美4人の作家がそれぞれ語る、競作の形式になっている作品です。

赤羽じゅん子が担当する第1話の主人公佐藤修は、本は読まないわけではないけど、どちらかというとスポーツやゲームのほうが好きな子でした。司書のすすめでビブリオバトルに出ることになり、大好きな『ヒックとドラゴン』を紹介しようかと思っていましたが、もっと大人っぽい本を読んでいるクラスの本好きの子の意見を聞いて心が揺れます。

「読みやすいし、楽しいけどな。ドラゴン同士のバトルって感じだろ? うーん。その、ビブリオバトルってやつにはどうかな? 大人の人もいるんだろ?」

「だけどさ、読んだあと、じんわり感動が残ったり、なにか考えさせられたりするほうが、本を読んだって気になるよ。あー、おもしろかったってだけじゃ、すぐ忘れちゃう」

わたしはここで、もし物語がこの子に『ヒックとドラゴン』を捨てさせる方向に進むのなら、本を壁に投げることを決意しました。幸いこれは杞憂で、修はつたないながらも『ヒックとドラゴン』への愛を語りました。

おおやなぎちかが担当する第3話の本田玲奈は、『バッテリー』の主人公原田巧への憧れを語ります。その際玲奈は、自分が作中にはほとんど登場しないクラスメートの女子矢島繭に自分を重ねて読んでいるのだと表明しました。あさのあつこは少年を神聖視する裏のミソジニーを批判されがちな作家ですが、こういう受容の仕方もあるのかと、新たな視点を得ました。

子どもの「好き」や伝えたい思いを尊重しているところが、この作品の美点です。もちろん伝えることは難しく、どの子も伝えきれないもどかしさに悩みます。そこで小手先のプレゼンの技術をレクチャーしようとせず、その難しさの前にたたずませることにとどめた節度も好ましいです。

2017-08-11

[]『悪役リメンバー』『脇役ロマンス』 『悪役リメンバー』『脇役ロマンス』を含むブックマーク

古今東西の名作を下敷きにした短編アンソロジー。新しいところでは「人面犬」の都市伝説まで取り入れているのが幅広いです。

悪役・脇役に焦点が当たるので、必然的に恋に破れる話が多くなっています。死ぬべき犠牲者に恋をしてしまった死神の苦しみを描いた粟生こずえの「死神の春」は素直に泣かせますし、文字が報われるはずのない恋をする小島水青の「僕は月夜に目覚める」も、その設定をいかした皮肉な結末が涙を誘います。

小松原宏子の「ロザラインの憂鬱」は、ロミオの片思いの相手だったはずなのにまったく物語に関わらないロザラインに思いをはせつつ、恋愛に縁のなさそうな女性教師に恋の相談をするという残酷な遊戯に興じる中学生女子の話です。オチは容易に予想できますが、物語から疎外されているように思っている人間のやるせなさがうまく描かれていて、いい余韻を残します。

小松原宏子のもう1作「ディオニソス王の孤独」は、悲恋ではなくBLに読み替えています。文化祭の劇でガリ勉キャラの男子がメロス役、荒くれ者キャラの男子がディオニソス王を演じるという設定で、現実の出来事と演劇の内容をリンクさせてふたりの心を解きほぐしていく過程が読ませます。

森奈津子は、声オタの女子が清姫のようなストーカーになりそうになる「三次元なのに遠い人」と、いじわる役の姉を主人公とした「シンデレラの姉」の2作を寄せています。この2作からは、屈託を抱えつつも自分らしく生きていこうとする子どもを応援しようというあたたかさが感じられます。フェミニズム論客としても活躍している森奈津子らしい作品になっています。

ハーメルンの笛吹き男」を元にした「子供たち」と「羅生門」を元にした「カーニバル・ゲート」は北野勇作。子ども向けの短い作品であるだけにかえってオブラートが薄く、北野作品の根底にある怒りや絶望が表面に出ているように思えます。「子供たち」は大人に絶望して見捨ててしまう子どもがストレートに描かれています。「カーニバル・ゲート」はなんらかの破滅後の世界でロボットが跳梁する、いつもの北野作品っぽい話ですが、ヒトがちゃんといるんだというところが意外でした。「本当の物語のはじまりはここからだ!」というおもむきのエンディングは、『どろんころんど』を彷彿とさせます。

2017-08-08

[]『ホテルやまのなか小学校』(小松原宏子) 『ホテルやまのなか小学校』(小松原宏子)を含むブックマーク

物語は、やまのなか小学校最後の卒業式の場面から始まります。田沼ミナ(ミナ)・宇佐見はる子(うさ子)・今幸太(コンタ)、3人の6年生が卒業すると児童がいなくなり、卒業式終了と同時に廃校になります。ミナは、「『やまのなか小学校』は、いつまでもみなさんの学校なのです」という校長の式辞を、「ミナさん」と自分のことを言われているのだと勘違いしてしまいます。卒業後単身町に出たミナはたった3ヶ月で都会の生活に嫌気が差し、山に帰ってきます。そこで、小学校が自分のものになったのだということを思い出し、仲間の手を借りて小学校をホテルに改造し、ホテル業を始めます。

帰ってきたミナが小学校を占拠する様子がとても楽しそうです。ずっと座ってみたかった校長室のソファで遊び、保健室のベッドで誰にはばかることなく寝て、図書室の本も読み放題、給食室の設備も使い放題。なんでもそろっています。ヒトさえいなければ学校ってすごく居心地がいいんですね。

この作品、わざと読者を混乱させる書き方がなされています。たとえば、3人の卒業生が人間ではなく狐狸のたぐいであるということは、なかなかはっきりしません。カバーイラストや名前、山の動物たちが卒業生の家族や親戚であるという情報などからそれはほぼ確定ではあるのですが、明言されているわけではありません。

時間のスケールも混乱しています。ミナはホテル業、うさ子は実家の万屋、コンタは大工見習いと、3人は小卒でふつうに働いています。しかし、校長の言葉を勘違いしたミナだけ地の文で「ミナさん」と呼ばれるようになり、うさ子とコンタは呼び捨てのままなので、まるでミナだけが一足先に大人になったように感じられます。さらに、ホテルの客の前でうっかり口を滑らせて、小学校を卒業したばかりのはずのミナが人間の寿命を軽くこえる年齢であることも明らかになります。

やまのなかホテルは厄介な人間の客をふたり迎えることになります。この空間は時間が混濁しているので、人間は小学校で、ある種の生き直しをすることができます。現実にくたびれた人間の再生の物語として、よくできた設定になっています。

2017-08-04

[]『靴屋のタスケさん』(角野栄子『靴屋のタスケさん』(角野栄子)を含むブックマーク

靴屋のタスケさん

靴屋のタスケさん

1942年、小学1年生の女の子は、町に新しくできた靴屋のお兄さんタスケさんと仲良くなります。時代が時代なので材料も手に入りにくく靴は贅沢品です。女の子は親にわがままを言って赤い靴を注文します。タスケさんは皮探しに奔走し、靴を完成させ、ふたりで立派な靴を履いてダンスをします。

贅沢品の靴は、ここではない世界への憧れを示します。お父さんは赤い靴など履くと「異人さんにつれてかれちゃうぞ」と脅かします。そういったあぶなさも、憧れを増幅させます。

やがて、目が悪くて徴兵検査に落ちていたタスケさんも戦地にかり出され、町も空襲で焼けてしまいます。

この作品では、戦争に対する怒りは声高には語られません。ただ、少し成長した女の子は、タスケさんの靴と自分の赤い靴がリズムを刻みながら歩いていく様子を幻視します。

かかと かかか

 かかと とかか

  かかと ととと

   とまれ かかと

    ととと

     ととと 

靴の歩みは、ありえたかもしれない可能性の象徴です。それが奪われたという事実を突きつけるだけで、戦争の悲惨さは効果的に伝わります。

森環のイラストも、強烈な印象を残します。70ページの女の子の泣き笑いのような絶望しているような表情にどんな感情が隠されているのかを考えると、眠れなくなります。

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