児童書読書日記

2017-11-17

[]『嘘の木』(フランシス・ハーディング) 『嘘の木』(フランシス・ハーディング)を含むブックマーク

嘘の木

嘘の木

人は動物で、動物はただの歯だ。先にかみつき、食らいつけ。それが生き残る道なのだ。

(p302)

イギリスの理系少女のフェイスは、博物学者である父エラスムスを神のように崇拝していました。しかし化石の捏造疑惑というスキャンダルに見舞われて父は失脚、逃れてきた島でもさっそく村八分にされます。やがて父は謎の転落死を遂げます。この死は自殺として処理され、それは神の意に反する罪なのでまともに埋葬すらされないという侮辱を受けます。フェイスは父は殺されたのだと確信し、父の秘密の研究「嘘の木」を利用して真相究明と復讐を成し遂げることを誓います。

フェイスにとって父は信仰の対象ですが、同時に抑圧者でもあります。時代はダーウィンが『種の起源』を発表した直後。女性が知性を求めるのは罪とされていた時代です。女性の方が頭蓋骨が小さいのだから知性で劣るのは科学的事実だというのが、当時の常識でした。父も女性の知性を認めず、フェイスは隠れて知を探求せねばなりませんでした。フェイスは、自分とは逆に美貌だけを武器に世渡りしている母を軽蔑していました。フェイスは厄介なエレクトラ・コンプレックスを抱えています。

復讐のためにフェイスが頼ったのが、「嘘の木」という奇妙な生態を持つ木です。父の研究によると、その木は嘘を養分として生長し実をつけ、その実を食べた人間に真実のヴィジョンを見せるのだといいます。フェイスは父の幽霊が出現したという嘘を手始めに島に嘘を蔓延させ、「嘘の木」の力も利用しつつ真犯人を炙り出そうとします。狡猾な計略で他人を陥れ自分の目的を果たそうとするフェイスの姿は悪役じみてもいますが、その機知と闘争心の強さが魅力でもあります。そもそも、嘘を広めることにより真実が得られるという作中ルールが、あまりにも凶悪です。これは禁断の実であり、いうまでもなく人類の原罪の象徴です。

しかし、時代はダーウィンを通過しています。あらゆる神話は解体されるのが、時代の流れです。神は殺害されなければなりません。暴かれる残酷な真実もあり、秘匿される真実もありますが、人は理性の光に照らされた道を歩いていくしかありません。

エレクトラ・コンプレックス、フェミニズム、人類の原罪、神話の解体、語るべき要素が盛りだくさんの作品です。それでいて、ミステリやサスペンスとしても完成度が高く、エンタメとしても読ませてくれます。この作品は2015年のコスタ賞児童文学部門を受賞し、同賞の全部門最優秀賞にも選ばれています。これは、フィリップ・プルマンの『琥珀の望遠鏡』と同じ高評価を受けたということになります。この高評価もうなずけます。今年日本に紹介された翻訳児童文学のなかでもベスト5に入ることは確実でしょう。

2017-11-14

[]『安寿姫草紙』(三田村信行『安寿姫草紙』(三田村信行)を含むブックマーク

安寿姫草紙 (ノベルズ・エクスプレス)

安寿姫草紙 (ノベルズ・エクスプレス)

三田村信行の新作は、日本で長い期間愛され続けてきた物語、説教節『山椒大夫』を下敷きにした長編娯楽読み物です。そもそも『山椒大夫』は、むちゃくちゃおもしろい物語です。貴族の子どもである安寿と厨子王の姉弟が人買いにさらわれて奴隷の身に落とされるという貴種流離譚であり、姉が身を盾にして弟だけは逃がすという自己犠牲の物語であり、厨子王による復讐譚にもなり、最後は離ればなれになっていた母子の再会で終わるという、名場面しかない至高のエンタメです。もちろん、幼い姉弟が額に焼き印を押されるシーンをはじめとした残酷描写も、人気の一因になっています。それを、不条理ホラーの第一人者であり長編娯楽作品にも定評のある三田村信行が450ページ近くの長大な物語として語り直すというのだから、おもしろくならないはずがありません。

三田村版では、安寿の出生から人買いにさらわれるまでの前日譚が、150ページほどたっぷり語られます。人付きあいが苦手で、社交的な性格の厨子王に対し死を願うほどの嫉妬心を抱いていた安寿は、家出してしばらく岩木山に住む山姥の世話になり、人を愛する心を得て人間の世界に帰還します。このため、さまざまな悩みを抱えた存在としての人間安寿の姿が立体的に現れてきます。同時に、神隠し体験を経た安寿は、すでに彼岸に近い存在としても設定されます。人間であると同時に異形でもある存在として、安寿は成長していきます。出生時にたまたま屋敷に逗留していた絵師が、「歳は十六 ――は自害」という謎の予言を聞いたり、安寿のと別れの場面で黒い地蔵菩薩像を渡した山姥が「あの黒仏は、もう一度ここにもどってくるじゃろう」(安寿は?)と予言したりと、着々と布石を打ちつつ、本編に入っていきます。

安寿の人間性を複雑に設定したことにより、物語では安寿の主体性が強調されることになります。そして、安寿の……(『山椒大夫』の物語はいろいろなヴァリエーションがあるが、最終的にはあのルートに行く)も、主体的な行動として読み替えられます。この読み替えは、鎮魂の物語としては正しいです。

この作品で興味深いのは、前日譚でむやみに人を殺しまくっているので、因果がねじれていることです。安寿と厨子王の父は迷信嫌いで、陰陽師を虐殺していました。この一家は仏罰を食らっても仕方がありません。安寿も安寿で、自身の軽率な行動が元でひとりの下女を自害に追いこんでいます。復讐されても文句を言えない立場なのです。このような因果がたまっていくので、『山椒大夫』というより『牡丹灯籠』や『累ヶ淵』のような怪談話を読んでいるような印象になります。となるとあの結末は、「君ら同じ間違いを繰り返すの? 学習能力ないの?」ということにもなってしまいそうですが、どうなのでしょう。

ともあれ、安寿側を一方的な被害者側に置かないことにより因果がからまって、運命の流転の物語がよりダイナミックになっていることは確かです。三田村信行は『おとうさんがいっぱい』や『ぼくが恐竜だったころ』などトラウマ児童文学をたくさん生産していますが、この『安寿姫草紙』も子どもの心に強烈な爪痕を残す作品になりそうです。

2017-11-10

[]『青空トランペット』(吉野万理子) 『青空トランペット』(吉野万理子)を含むブックマーク

吉野万理子にしてはあまり闇の感じられない健全児童文学です。

とあるベイスターズファンの一家の2016年の物語。小学6年生の広記は、父親と妹の奈奈、友達の健太郎とトモちんの5人でよく野球観戦に行っていました。ところが、母親から「応援される人じゃなく、応援される人になれ」と言われた健太郎が、野球の応援から遠ざかってしまいます。そのほかにも周囲の人々の状況が変わってきて、広記も自分の「ゆめ」を見つけなければならないのではと焦り始めます。

子どもは大人のいい加減な言葉で惑わされるものです。健太郎の母親の発言がなくても、子どもは大人から将来の方向性を早く決めろと急かされてばかりで大変です。この作品は、もっと適当でいいんだと子どもを励ましているようです。

野球少女のトモちんは、野球一本に打ち込まなければならないと思いこんでいましたが、ソフトボールに転向することを決意します。「ゆめ」なんていくらでも変わっていいのです。

子どもだけでなく、大人だって変化します。ベイスターズ三浦大輔だって引退して別の道に進みますし、無責任発言をしていた健太郎の母親もオプティミストだったのにある出来事をきっかけにペシミストに転向してしまいます。

広記の妹の奈奈は視力が弱く、学校では拡大テレビを利用して勉強していました。でも、性教育の時間をきっかけに自分の書いていることが後ろの子に見られることを意識するようになり、拡大テレビを使用をやめてしまいます。

これだけで児童文学1本のテーマになりそうな大きな問題ですが、作品のひとつのエピソードとして流されるのが贅沢です。奈奈の決断が正しかったのかどうかは判然としません。外野からは工夫すれば技術的に解決できる問題のようにもみえますが、実際予算や手間を考えると難しいこともあるのでしょう。こういうデリケートな問題に絶対的な正解などありませんし、試行錯誤しながらよりよい方法を模索するしかありません。

人はいくらでも生き方を変えられるという適当さを許容しているところが、この作品のいいところです。タイトルから予想がつくように、広記は応援団になってトランペットを吹くことを目標に定めます。でも、この作品世界であれば、広記が3日でトランペットに飽きたとしても許されるような感じがします。

2017-11-07

[]『女神のデパート3 街をまきこめ! TVデビュー!?』(菅野雪虫) 『女神のデパート3 街をまきこめ! TVデビュー!?』(菅野雪虫)を含むブックマーク

つぶれかけた老舗デパート弁天堂の再建ストーリー第3弾。消費が落ちこむ8月を前になんとかデパートを盛り上げようと、結羽ははりきります。

序盤は結羽とおじさんがさまざまなデパートをまわって、社会科見学的な楽しさを提供してくれます。そして結羽は、夜のデパートに宿泊させる企画を考えつきます。しかし、宿泊企画となると夜に従業員をかり出さなくてはならなくなります。それを強制できないということで、企画は暗礁に乗り上げます。弁天堂は従業員に優しいホワイト企業のようです。ディーバ産業のはるかさんも従業員から搾取したらダメだって言ってるし、この世界の経営側はホワイトでうらやましいです。

それはともかく、従業員のモチベーションを上げるアイディアを思いついて宿泊企画はなんとか実現することになります。すると今度は商店街との対立問題が持ち上がってきて、悩みは尽きません。

商店街の人は廃業したとしても住むところは確保されているので、とりあえず生活はできます。しかし、デパートは従業員の生活を守らなければなりません。商店街とデパートの経営陣の埋めがたい意識の差が問題として浮上してきます。商店街と弁天堂が不仲になったきっかけも明かされます。以前の選挙時に、商店街が推す候補者に投票するよう弁天堂が従業員に要請しなかったことを恨まれていたようです。ホワイト企業弁天堂の好感度は上がっていきますが、大人の世界は複雑でつらいことが多すぎです。「女神のデパート」シリーズ、社会派児童文学として容赦がありません。

心配なのは、結羽がすっかり労働中毒になって、夏休みになっても「うわー、働きたいのに! 労働したいのに!」とダダをこねる変な子どもになってしまったことです。そんな結羽に労働を禁止して勉強しろと命じる母親がまっとうなのが救いです。ところが、父社長がとんでもない決断をして次回への引きとなります。まだまだ波乱の続きそうな「女神のデパート」、続きが待ち遠しいです。

2017-11-03

[]『わたしがいどんだ戦い 1939年』(キンバリー・ブルベイカーブラッドリー) 『わたしがいどんだ戦い 1939年』(キンバリー・ブルベイカーブラッドリー)を含むブックマーク

1939年のロンドン、ドイツ軍の空襲の懸念のため、子どもたちは田舎に疎開させられることになります。しかし、10歳の少女エイダは疎開を許されていませんでした。内反足のエイダを差別していた母親に部屋に監禁されていたからです。第二次世界大戦以前から、エイダの戦争は始まっていたのです。

エイダは母親に隠れて家を脱出し、疎開者の列にまぎれこもうとします。母親に隠れて歩く練習をして、自分の靴は持っていないのであらかじめ母親の靴を盗んでおいて、不自由な足で決死の覚悟で外の世界に飛び出します。家から出るというただそれだけのことが、彼女にとっては大冒険なのです。

疎開先で、かつて同性パートナーと暮らしていて今は死別している進歩的で教養のある女性に世話されることになったり、金髪のお嬢様と友達になったりという展開は、当時の社会事情を考えるとファンタジーであると捉えざるをえないかもしれません。でも、人間としてきちんと尊重される経験を積まなければ、子どもは人間らしく育つことはできません。

この作品ではもちろん戦争の悲惨さも詳細に描かれていますが、それよりも母親の非道さのほうが強烈な印象を残します。エイダはある意味戦争のおかげで母親の支配から逃れられたのですから、冗談でも皮肉でもなく「希望は、戦争。」だったのです。

この作品を読んで思い出されるのは、ジェラルディン・マコーリアン(マコックラン)の『ジャッコ・グリーンの伝説』です。世界の危機を救う冒険をして帰還した少年が、DV姉には相変わらず弱いままだったという、なんともやりきれないラストが苦い後味を残す作品でした。『わたしがいどんだ戦い 1939年』も、同様の苦さを持っています。疎開先でさまざまな学びを得て人間としての尊厳を取り戻したはずのエイダも、母親の心理的な支配のくびきからはなかなか解放されません。家庭というものの重さを考えさせられます。

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