九鬼の調査

 九鬼の老人会「明朗会」の会長、副会長にヒアリング。
 朝9:00に九鬼に到着し、お迎えいただく。
 まずは、尾鷲市役所の支所に案内される。ここの建物は、津波が来た当時からある建物で、かつては九鬼一番の家(宮崎家?)の建物。中に入れさせてもらって、梁の20cmぐらい上に海の水が来た跡を見せてもらう。(波は4mぐらいだったということになる)潮に使っても建物そのものは損傷はしなかったよう。ただ、今でも湿った時期には塩を吹いてくるとのこと。
 そのあと、小学校に向かう。私の記憶より、随分近くにあったが、それでも高台にあって、九鬼の街を見下ろせる。私は懐かしくて、ヒアリングは研究者にまかせて、もっぱら九鬼の景色を堪能。それでも、聞こえてきた話では、地震は図工の時間に起きて、最初はわからなかった。机に前に座っている子の椅子があたるので、「やめて」と言っていたそう。その後、先生に言われて、机の下に隠れて、地震だとわかった、という感じとのこと。それから校庭に集まって先生の話を聞いたが、校庭にはお袋の話と同様に、亀裂が走っていたとのこと。ただし、地震によって生じたものであるが、地中に土管が埋まっていた箇所であるので、そのせいだろうと言う。校舎も大きく壊れた記憶はないという。眼下にある九鬼の住宅も壊れたものは、先の支所に限らず、ほとんどない。その理由として、九鬼の町は経済的に豊かで、家々も立派だったからという見方もあるが、地震は建物を壊すほどの揺れはなかったというのが妥当かもしれない。なお、例外としては、現在、虎巻を売っているお店の辺りに立っていた新築の家が壊れた。これは、九鬼の海岸縁は平地を拡張するために埋め立てを繰り返していて、地盤が弱かったせいとする叔父の話が説得力があるように思う。

 会長は、津波地震から7〜8分で来たと言う。これに対し、副会長はわからない、叔父は(尾鷲だが)20〜30分とする。会長、副会長とも波が押し寄せてきたという記憶より、引き潮の方が印象にあるようである。九鬼湾の底が見えたという。引き潮があったということは、その前に第一波があったはず、と金田先生はおっしゃっていたが、どうか。私も母の話から、津波は引き潮からはじめる、という思い込みを持っていた。波はやはり何回来たようで、副会長には、校庭から見た、海岸縁にある九鬼神社の鳥居のところで潮が満ち引きしていた光景が印象的だったようである。(その後、海岸は幅を広げ、高さもかさ上げしているので、現在の鳥居の位置は違っているようである。なお、現在の鳥居の足元にある石碑は、途中まで地面(コンクリート)の下になっており、少なくともかさ上げされたことを示している。私の40年前の記憶でも、鳥居の位置は変わっていないが、その辺りがかさ上げされているのは確かである。)
 2人とも当時は「津波」という言葉も知らなかったよう。小学校4年生では、ということなのか、当時中学校2年生の叔父が、津波という言葉も知っていたし、怖いものだとわかっていたということとは差がある。
 津波から時間が経過しているせいか、津波後の記憶は各人とも薄い感じである。結局、その夜はどうすごしたのか。高台にある親戚の家で過ごしつつ、しばらくして家に戻ってというところか。家財は流されても家は残っているし、水も困らない土地だそうだし。もちろん、苦労はあったはずだが、戦中・戦後の苦労もあって、そこはそれほど印象的ではなかったのだろか。