鶏肉とキューブラー・ロス「死の五段階」に学ぶ

朝、一時間に一本のバスに乗り遅れそうになり、
急いで出たにもかかわらず、3回忘れ物を取りに戻った。
メガネ、コーヒーミル、ハンカチ。
何かをまだ忘れている気がする。
しかし、
あと3分でも遅れると、バスを一時間待たなくてはならない。
とりあえず出よう。
それにしても、いつも持ち歩いているコーヒーミルが
何で今日に限ってこんなにカバンに入りにくいのか。
ジッパーが閉じないよ。


バスに乗り、音楽を聴こうとカバンを漁ると
白い容器が入っている。
 
鶏肉が入っていた。
生の。
パックされている。
ラップも、スーパーで未だタダで入手できる薄い袋も装備。
 
 
 
さて、ここでエリザベス・キューブラー・ロスの提唱する「死の五段階」説に沿って精神状態の変化を見てみよう。
 
〈第1段階〉否認と隔離
「ナニコレ?」「何故、これが、ここに?」
と思いつつ、
とりあえず、当初の鞄漁りの目的、音楽を聴き始める。
とりあえず、ミスチル
まずミスチル
 
昨日、
軽く酔っ払い状態でスーパーに入り、
「袋要りません」でお買い物して
忘れ去っていたものでした。
思い出した思い出した。
 
……こんなもの入ってるから、カバンが狭いんだヨ!
 
〈第2段階〉怒り
「大体、最近調子が良くなったから自炊でもしよう、とか酔っ払った状態で考えるのが馬鹿なんだよ!なんで、何で玄関で気づかないんだ私は!わざわざ買ってきて馬鹿じゃないのか」
などと毒づく。
自己評価が少し下がる。
 
〈第3段階〉取引
「ああ、昨日に戻れたら冷蔵庫に入れるのにー」
などと思う。
無理です。
 
〈第4段階〉抑うつ
「ていうか、所詮使えない鶏肉になってしまうものを買うなんて、恥ずかしい」「鶏に申し訳ない」「自分では気づかないけど、鶏肉臭いのではないだろうか」「とてもマトモとは思えん」「自炊にすら値しない」
などと思う。
このときはちなみに、バスの中にいる。外は海の向こうにかすむ半島が見えて、妙に美しい。
 
〈第5段階〉受容
「とりあえず、食えないだろう」
ということになった(自分会議)。
捨てるにはどこが良いのか考える。
捨てる、という状態を想像すると、荷物がひとつ減ったようにすっきりする。
生ものなので、掃除のおばちゃんたちがすぐ処理してくれそうな学内のゴミ箱の位置を頭の中でシミュレーション。
 
 
さてここで、
「捨てる」について。
鶏肉を「捨てることにする」と、鶏肉を持っている状態に抱えている葛藤も、一緒に手放すことになる。色々な雑念が一緒に「切り離される」ことを選択したことで、自分がそれ以上対象について考えることをやめる。いや、振り回されるという状況を「手放す」ことになる。
しかし、依然として鶏肉を持っている。
「実際に捨てる」まで、鶏肉は私のカバンの中でゆっくりとではあるが腐っていっている。しかし、私の心の中にはもう存在していない。
 
これを、人生の他の事柄と組み合わせてみる。たとえば「さとる」こと。坊さんの専売特許みたいに言われているが、そうじゃないと思う、私は。
「さとり」を開くと、所謂執着がなくなるという状況になるといわれる。けれど、人生のもやもやした事柄を発生させる自称がすべて消えるわけではない。自分の中に、スイッチがなくなるだけだ。事象は相変わらず起こり続けるわけで。そして、その事象を完全に切り離すことをするのは、生きていくことから離れてしまうのではないかと思う。
 
人生には色々な事が起こるけれど、そのいろいろなことをすべて抱えた状態で、それ自身を「手放す」ことが日常を生きる中で目指す「さとり」なのではないだろうか。
本来、すべての事象は自身に対して葛藤を要求しているわけではないと思う。勝手に煩悶しているのだ。しかし、各々の人は自分の理由があって煩悶している。その理由を知り、縺れを解いていけば、楽に生きられるんじゃないだろうか。
腐っていく鶏肉を持っていても、心は平静でいられるものだ。
 
 
いやあ、通学時間が長い、というのもなかなか良いものですね。
今日のバスは大体45分ぐらいだった。
 
しかし、死の五段階はちょっとムリもあったかな。
まあ、途中をすっ飛ばすというのはあると思いまする。
 
 
ていうか、
鶏肉っすよー?!鶏肉!!
カバンに鶏肉(生)って……ありえ〜ん(笑)
もー、思い返すほど、笑えるわ。
バッカだなぁ、ホントに(笑)。
 
 
参考
死の伝道者/キューブラー・ロス(1987.12)[死の五段階についての略説]

死ぬ瞬間―死とその過程について (中公文庫)

死ぬ瞬間―死とその過程について (中公文庫)