線路を見続けたあの日々から

辛い周期きました!/笑。
あー。
再演は卒業のサインってやつだろう、きっと。
しかし辛い、辛いもんはしょうがねぇ。
 
昨日の夜、ちょっとしたきっかけで
「自分でいることがばれたら怖い」
という部分が出てきた。
脅かされた!と思った。
でも、実際脅かしているのは自分で、
自らが自らに対して明らかになることは危ない、
と思っているのは自分一人の妄想だ、と頭では解っている。
自分でいる自分が恥ずかしい、と思っていた自分が
まだ自分の中にいるのだなぁ、
自分らしい自分でいることが、まだ怖いのだなぁ、と。
 
 
自分が怖い、というのはどういうことだろう。
ただ自分になりたい、いや、ただ自分でありたい、
自分であることを許し、受け入れたい私であったはずなのに。
と思いながら、
今日、若い人の書いた手紙を読む機会があった。
私にあてられた手紙ではないのだが、
受け取った人が、ぜひ私に読んで欲しいというので、読んだ。
 
そうしたら、何やらもやもやし始めた。
 
それ自体は、とてもよい手紙だった。
文も感動的だった。
素直に、「こんな文を書けるなんて、うらやましいですね」と私は言った。
受取人は、私のその言葉を受けて、これだけの文章が書けた差出人が、どれだけ苦労し、
その苦労に裏打ちされた素晴らしい文章であるかを私に言った。
私はその話の中から、「これだけの苦労もしていないくせに、うらやましいなんて、安易な」というメッセージを受け取ってしまった。
「あなたの苦労なんて、この差出人に比べたら、大したことはないだろう」と、受け取ってしまった。
 
けれど、一方で、私は確実にこの差出人の周りに、その差出人を支えている人を見た。
愛されて、ただ自分であることを認められて、それを自分でも認められて、どんなにうらやましいか。
どんなに恵まれているだろうか、と私は思った。
差出人の年齢は、私の約半分だ。
その頃の私は、どうだったであろう。
 
そうしたら、もやもやは、どんよりになってしまった。
いきなり、胸が苦しくなってきた。
頭の周りを、暗い灰色の雲が取り囲んだようになってしまった。
 
これはどう見ても、なので、受取人から離れてから、フォーカシングをした。
そうしたら、線路が出てきた。
これは、高校の頃の私の視点だろう。
私は、毎日、線路を見ていた。
ホームに滑り込む電車と、そのレールの隙間に入るタイミングを、見ていた。
私が求めた未来への道を全部、遮断された状態で、「お前のなりたいものになれ」と言われたあの日々。
軋轢の中で、自分の存在意義などなかった。
それを支えるものも、なかった。
どうやって生き伸びたのだろう、と、今になっては思う。
勇気がなかったおかげで、あの隙間に滑り込むことができなかった。
勇気がなくて、本当に良かった。良かった?良かったことにしよう。
朝は起きられず、通学中もストレス過多で腹を壊したり、貧血になったりして
高校二年、三年あたりはほとんど毎日遅刻していたように思う。
どこにも逃げられなかったから、どうにか学校に行ったのだろう。
ある意味、心持が絶望から諦めに変位したので、学校には行っていたのかもしれない。
友人に会うのは、それなりに楽しみであったことも、日々を支えたのだろう。
そんなことを思い出した。
 
これは、私にとってはつらい思い出だ。
思い出して頭がぐらぐらし、泣きたいのにどうにも涙が出ないという状態になった。
これも、高校時代の再演のような状態だ。
あの頃、私は、滅多なことでは涙が出なかった。
 
しかし、これは過去のことだ。
この過去が、今の私を作った。
今の自分を支えている、多くの人々、状況に、私は感謝しているし、
感謝できる。
ここまでこれたのは、あの過去のおかげだ。
あの悲しみをなくすことはできないが、今、それを持ち続ける意味はない。
それをもう、私は知っている。
 
そして、自分の人生の評価は、自分がするものだ。
それも、もう知っている。
 
すべては変わりゆくし、すべて移り変わることは、未来への祝福だと思う。
そして、実は、何もコントロールすることができない流れの中にある、とも思う。
出会ったあの人とのタイミングも、あんな考え方をするようになった社会的影響も、
何かに対する好き嫌いの感情も、ここに来るまでにしたすべての選択も、
何かの影響によって起こっており、それはこれからも続く。
もっと良くありたいとか、もっとこう生きたいとか、
そいういう思いさえ、何かの影響によって、選択させられている、と思う。実は。
すべては自分が決めているんだ、という考え方さえ、何かによる影響だ。
ただよくありたい。
すべての生き物がそう思っていて、そうであるように選択してきた。
その結果が、今であると思う。
その何かというのは、
もし、宇宙というものに意思があったとしたら、それかもしれない、と私は思う。
私は一人の人間の、まつ毛の一本かもしれない。
もっともっとと伸びて、落ちると、次のまつ毛への場所が空く。
そこに新しいまつ毛が伸びる。
一本のまつ毛に意思はあるのだろうか。
私に意思があるとすれば、あるのかもしれない、と思う。
ならば、宇宙にも、意思があるのかもしれない、と思う。
 
もし、それによって私が生まれたのなら、
それがそう望むなら、
そうであろう、と思うようになった。
それが、流れというものなのかもしれない。
苦しみも、喜びも、実は違いがない、という仏教などの言葉は、こういった意味かもしれない、と思う。
 
何かが、私が「在れ!」と望んだのだから、在ろう。
そして、私が思うままに「在る」ことが、その何かの、本当の望みの顕現ではないか、と、今は感じる。
そしてそれは、私の望みの顕現となるのかもしれない。
 
私はここまで、あの日から来ることができたのだ。
また、今の日を、懐かしく思い出す日が来るかもしれないことを、
あの日々が、私に教えてくれている。
本当に、ありがたい。
ありがとう。
 
 
 
さて。
上記の手紙、読まされた(?)意図は、私が受け取ったものとは全く違って、
受取人への称賛の部分を私に見せたくて、さらにそれを一緒に喜んでほしかったんだな、
と、今になって気がついた。
でもまあ、いいか。
私は私で、よいものを頂きました。
ごっそうさんです!/笑。
 
しかし、いろいろ思い出したら一日潰れちゃったよ・・・。
うーむ。まあ、仕方ねぇ。