ニセS高原から ポツドール版

9/12夜の回を見る。

勝手な感想を一言で言えば、平板で、センチメンタルだ、と思う。

ポツドールを見るのは二回目。私は、前回見た「アニマル」のレビューでは、かなり辛辣な批判を行っていた。「アニマル」は、セリフがほとんど聞こえないという極端な作品だったので、セリフが聞き取れる場合、ポツドールの舞台はどんな感じなのかについて多少の興味はあったし、平田戯曲をどう料理するのか興味深くもあって、今回足を運んでみた。

冒頭の場面は二人の役者の会話からはじまる。前回のレビューでは、

この舞台の役者と演出家が、たとえば二人や三人だけの芝居を作ったとしたなら、セリフの有無は別にして、この舞台のレベルのリアル感を醸し出すことはできないだろうと思われた。

と書いていたので、自分の評価を改める必要に迫られるかな、と思ったけれども、見ている間にそういう期待(というか懸念というか)は消えてしまった。結論から言えば、基本的にポツドールに対する評価は最初見た印象から大きく変わらなかった。「いかにも自然な演技というのはできるかもしれないが、そこに何か訴える力は宿らないだろう」と言っておいた通りだった。


ポツドールの舞台のリアリティというのは、粗暴な若者像を描くこと、そのディテールを積み重ねていくこと、に尽きているのではないかと思う。

蜻蛉玉に比べても、人物それぞれはあまりバラエティに富んでいるということはなくて、なんとなくみんな同じ調子じゃないかと思う(もちろん、月並みな演劇よりははるかに面白く、役者それぞれの演技はそれなりのリアリティを醸しだすだけ見事なものだったことは認めるけれども)。

まあ、確かにまじめそうだったり、おとなしそうだったりといった、いかにも粗暴な若者とは違ったタイプの登場人物も居るのだけど、そういう人物については平板な印象しか残らない、というか、ポツドール演出に特別なものはあまり感じない。

そして、若者同士で「盛り上がって」いるときか、誰かが「キレて」いる時に、舞台は独特の生々しい質感を帯びるわけだけれど、その熱っぽさというのは、どの場面を取っても同質的なものだという気がする。

ジュースに唾を吐く、みたいな演出も、いかにもキワモノという感じ。

ポツドールについて言われるリアリティというのは、ある種のシミュレーション的な演出として、役者同士の個人的ないさかいをダイレクトに舞台にのせた「ドキュメンタリー・ドラマ」の試みの上に獲得された独特な演出手法の上に成り立ったものなのだろう。その点を評価すべきであるとしても、そこから帰結するものは、レンジの狭いものではないか、と改めて思った。

原作が持っていたドラマを、できるだけ単純で突発的な怒りが散発していく状況の連鎖に読み替えていくような作業をしているということだろうか。

絶えず人が出入りする待ち合わせ場所のようなところに舞台を設定して、生まれては消える人間関係を描いていくという感じの平田戯曲独特の場の捉え方も、この演出では、公共空間を我が物顔で占有しようとする者同士の間で縄張り争いが起こる、という風な感じに変わっていたようで、その質感の違いは面白かったけれど、ひょっとすると原作が生み出そうとした時間とはまったく異質の、単に散漫ないがみ合いの連続に変わってしまっているのではないか、というような気もして、平田オリザ演出の『S高原から』もこの機会に見ておこうか、という気分になって帰ってきた。

その粗暴で散漫ないがみ合いにばかり興味が向かうというのは、案外センチメンタルな感受性から場面が掬い取られているからではないかなあとも思った。