町屋キャンパス

2010-05-09追記
今朝の京都新聞一面に「京に息づく<ほんもの>」という記事がある。今週末の葵祭についてのエッセイだが、末尾に「町屋キャンパス」についてふれられていた。京都学園大学では2年前から始めているそうだ。
昨今の流行か、同様の試みは少なく無い。同志社大学でも出町と衣棚通丸太町下ルに京町屋を利用したキャンパスを、龍谷大学大津市京町に町屋キャンパス「龍龍」を持っている。
興味深いのは、この前近代的な伝統建築が、むしろ学生の学習に適している、という指摘だ。

学生の人気があるのは、2階の洋室より、1階の畳敷きの座敷教室だ。面白いことに和室の狭い空間が授業に集中できるのだという。
ここで授業を受ける学生は、ことばにならない何かを感じるようだ。拭きこんだ柱、最上等の畳、それはごまかしのないほんものが醸し出す独特のふんいきではないか、と私は考えている。(山崎芙紗子・京都学園大学教授)京都新聞2010.05.09.

これこそが、上記「隠れたカリキュラム」の格好の例である。明示されたカリキュラム以外のものからも学生は多くを学習する。たとえばクラスルーム、黒板と椅子と机がある空間では、わたしたちはそれに応じた身体技法を自然と身につける。(参考用語:ベル=ランカスター法)

上記事の問いに戻る。
なぜ、真宗大谷派の仏教の大学が、仏教寺院建築ではなく、赤レンガの西洋建築を学舎としたのか?
おそらく当時は、それが近代人として「合理的」で、「大学生の学習に相応しいもの」として認識されたからに違いない。しかし、その認識があくまでも時代的なものであることを、今朝の新聞記事の指摘は証明している。少なくとも平成時代の学生にとっては「和室の狭い空間が授業に集中できるのだ」とすれば、明治大正昭和の学生たちはどうなのか。

赤レンガの学舎が有する「隠れたカリキュラム」と、真宗大谷派の「明示されたカリキュラム」との関係性は、やはり興味深い問題点である。