大和但馬屋日記

はてなダイアリーからの移行中

五扉といへば京阪5000系以外に何があるといふのかと

例のトラバスパム。今のところうちには来てゐないのは、何かさうなる条件でもあるのだらうか。「ブログ開設おめでたう」の時はブログモードが自動コメント避けの役割を果してくれた様だが。
まあ、そのうち来るかもしれんけどね。


といふことを書いたら来たよ。しかしこのエントリへのトラバではなかつたのは詰めが甘い。でもつて、すぐ削除した。

iPodのバッテリー劣化

PLAY-YAN microを導入してから三箇月ほど経つて、その間ほとんど使用しなかつたiPod。あまり放置しておくとバッテリーが劣化するらしいので、リハビリ的に使はうと思つて充電してみた。
むう、既に症状は出始めてゐるやうだ。充電が完了した直後のバッテリーゲージがすでに半分を切つてゐる。本当に容量が少なくなつたのかどうかは定かでないが、健康な状態とは言へないだらう。しばらく我慢してヘッドホン生活をするか。
DS+YANの組合せによる解放感は、いざiPodに戻つてみるとやはり良いものだと思つた。あと、ヘッドホンを装着したらしたで、その音質もYANの方が好みだなあ(勿論ワシの耳が腐つてるだけかもしれない)。iPodの音質はPhotoだかVideoだかで随分と改善されたさうだが、ワシの世代のは今になつてみるとやはり弱いやうだ。買つた当初は全然気にならなかつたのに。
その代りといふわけでもないが、所有する全曲が収まつてゐるといふ点と、それを生かしたシャッフル再生だけは圧倒的なメリット。YANではフォルダ内でしかシャッフルができず、さらに厳密にいへばそれはシャッフル再生ですらない、ただのランダム再生だ(一巡するまでに同じ曲が再生されることもあれば、全く再生されない曲もある)。それから、YANでは残念ながらフォルダ内のファイルを認識する上限が九十八までのやうだ。これは九十九トラックあるアルバムの最後の一曲が再生されないことからの推測。まあ、高望みはしないからそれは別にいいけど。
このままいづれiPodのバッテリーが死んだ後、それを修理したり新しい機種に買換へるかといふと、かなり疑問な気がしてならん。DSの三台目を買ふ方がまだ躊躇がないのはどうしたことか。たぶん、一台はワンセグ+YAN専用機として両方のスロットが埋つた状態になるだらうし、一台は当分「森」専用機だし、他のゲームで遊ばうと思つたら三台目が要るよねえ。ねえ?

何この仮面ライダースーパー1

なんか、悪さうといふか、どちらかといふと二輪方面のセンスよね。同系色の使ひ方としてはミッドランドのカラーリングの方が格好良く見える。
つか、今季は「赤・白(銀)・黒」のマシンがやたら多くないか? マクラーレンミッドランドトヨタホンダ、そしてフェラーリ。数年前にグリッドの半分が青一色に染まつた時も詰らんと思つたが、今季もそれに次ぐ彩りのなさかも。否、それどころか、残りのチームもレッドブルトロロッソがほぼ同じ色、ウィリアムズBMWザウバーも見分けがつかないくらゐの青と白、そしてルノーも青と黄色。この黄色だけがせめてもの救ひで、あとは赤と青と無彩色のみ。F1史上稀に見る色味の少ないグリッドになりさうだ。となると期待が集まるのはスーパーアグリといふことになるが、ARTAのイメージカラーはオレンジと黒だからなあ、てかそれアロウズの色のまんまだし。
それぞれが自分のセンスの良さをアピールしようとして、いざ集まつてみればただ没個性であることを露呈してしまふ。ナンセンスだよねえ。F1はやはり原色バリバリの極彩色であつてほしい。なんといふか、「自分達が祭りの一パートを担つてゐる」といふ意識が完全になくなつてしまつたんだな。昨年のアメリカGPがその象徴。

気のおけない話せる友達 それよりもお金が大切ですか

銃姫」の第六巻を読んでゐると、彼の言うように気のおける者同士でいっしょになれば云々といふ記述があつた。もちろん、前後の文脈から判断するに「気のおけない者同士で」といふ意味で使つてゐるのである。かういふのは一に校正の、二に担当編集の責任でチェックすべき事柄だと思ふのだが、知つてゐて見逃したのか、誤りに気付かなかつたのか、それとも指摘されても作家が押し通したのか、はたまたその逆で編集者がさうさせたのか等々、気になるところだ。
とはいへ、「気のおけない」といふ表現自体にも問題はある。何も知らずにこの言葉に接すれば、そこに警戒のニュアンスを感知しても仕方がないとはいへるからだ。これがもし「気おけない」であれば誰も疑ひなく警戒の意味として受け取るだらう。
「気のおけない」といふ表現が何時頃から何処で使はれ始めたものかは浅学にして知らないけれども、その言回しには如何にも東京方言に特有の少し捻くれた気取り、さういつて悪ければ機微、あるいは粋がりのやうなものを感じる。だから、その空気を生得的に共有しない自分はあまりこの言葉を用ゐる気にはなれないし、かういふ言葉を後生大事に守ることが「美しい日本語」とやらの維持に繋がるとも思へない*1
既にある表現の形を、意味をそのままに正反対の言葉で表すべきではないから「気のおける者同士で」といふのは全く許容できないけれども、「正しくは『気のおけない』です!!」といつて誤りを指摘すればそれで良いかどうかは検討の余地があるだらう。言葉を積極的に殺すべきでないことは承知の上で、しかし誤用に伴ふ混乱のリスクを背負つてまで「気のおける/ない」といふ表現を使つてよいのかどうか、一度は考へてみてほしいと思ふ。

  • 2006年02月17日 funaki_naoto 『[ことば]「その言回しには如何にも東京方言に特有の少し捻くれた気取り、さういつて悪ければ機微、あるいは粋がりのやうなものを感じる」』

*1:蛇足ながら、「美しい日本語」なるものをワシは支持しない。美醜を特定地域の方言を基準に決めるなど言語道断である。「正しさ」の基準としての標準語は必要であつても、それと美醜の価値判断とは切離されるべきだ