恋愛青春映画の王道はこれで良い!

僕等がいた」の原作のボリュームがいかほどのものかは知らないが、ひとつの物語を前半、後半に分けて公開する形で映画化となった。乱暴にぶった切ると前篇が高校篇、後篇が大学・社会人篇といったところだが、この映画については前・後の製作も、その連続公開も文句はない。それだけ、この恋愛青春映画の王道の展開に惚れ込んでしまい、満足させてもらったのであった。

原作漫画のファンの中では、生田斗真がちょっと主人公のイメージと違うんじゃないの?と言ったような感想もあるようだが、彼以外に高校生から大人まで違和感なく演じられる俳優は考えられないぞ。またそれは吉高由里子にも言えることだ。すなわち、この作品がちゃんと大人の鑑賞にも耐えられる作品になったのは、真剣に演じている俳優たちも大人だということが大きいのだ。青春まっただ中の実年齢の俳優に(某事務所の幼顔のアイドルとしよう)、そのまま青春を演じることは無理なのだ。いい大人が真剣にモノづくりとしての漫画の世界を体現して、成功したのがこの映画なのである。

後篇、矢野元晴青年に襲いかかる数々の苦難は、スリリングなディザスタームービーのようだ。実はこの急激な大人への変化を見せる場面が見せ場の後篇より、高橋七美(吉高)が切なく一生懸命に矢野を想い続けるだけの前篇の方が好きである。お互いを苗字の呼び捨てにするところが、今どき(オヤジの言い方か?)のリアルな若者であり、彼らの高校生活の日常(合唱の練習、文化祭の夜)の中での普通の男女の恋物語が心地よい。それは、すべて前篇が高橋中心に構成されているからだろう。吉高由里子の魅力爆発だ!

ところが、後篇では大半が、高橋が高岡蒼甫扮する竹内の話を聞いている構成で、当然、その話の映像化なわけだから高橋は出て来ない。ここで場をさらっているのが本仮屋ユイカ演じる山本有里だ。本当は彼女も切なく一生懸命に矢野に思いを寄せているだけなのだが、矢野にとって死んだ恋人の妹というだけで困難な存在なのである。実は後篇の一番の見どころは、この山本の青春の再生という部分だったことが最後に分かってくるから面白いのだ。ユイカちゃん助演女優賞ものだ!

三木孝浩という監督は「ソラニン」を見たとき『あぁ、PVの映像作家特有の画で、一番苦手なタイプだな』と思い、それほど監督としての期待で、この映画を見ようとしなかった。しかし(特に前篇)非常に丁寧にカットを積み重ね(故に尺は長くなってくる)、物語を誘導するのは画(引きの画あり!)となっているスタイルに『あれっ、この監督ってこんなに上手かったっけ?』となってしまった。

多くの若者を惹きつけたのは、男女どちら側からも、いわゆる映画の中に『自分』を探すことが出来る物語だからじゃなかろうか。そして女子は“私は山本だ”と思いながらも、見終われば“斗真君カッコイイ!”となる。それでいいのだ。でもオヤジが見ても斗真君は良く、母を亡くし札幌にドロップアウトして、バーテンダーやっている時の、高校生時代との眼の違いが素晴らしい!

どうでもいいことだけれど、この映画って年末のベスト10とかには、前篇だけで1本として入れたりするのかなぁ。それはともかく、製作のアスミック・エースにとっては、大変なときに(言ってみれば)『神風』が吹いたのだ。この勢いで「ヘルタースケルター」「のぼうの城」とヒットを連発して盛り返して欲しいものである。