ディランの詩の世界(の、ほんの断片)
「ボブ・ディラン、ノーベル文学賞」のニュースを知って驚いた。夢がひとつかなった気分になった。
十代のころから、母が持っていたピーター・ポール&マリー版「風に吹かれて」のレコードを聞いたり、CDも何枚か買ったりした。でもディランの歌の世界に惹かれるようになったのは、この数年のことだ。それ以来、日本公演には必ず行くようにしている。(2010年、2014年、2016年)
2014年(東京のチケット取れず)ZEPP名古屋
ディランは今この瞬間に彼自身がやりたい演奏を行うスタイルだ。懐かしのヒット曲だけを期待していると肩すかしをくらうが、ファンもそれを分かったうえで彼の「今」を聴きにいくのだと思う。ステージ上の彼を見ると、「おまえはどうなんだい?」と問いかけられる気分になる。(”How does it feel” 「ライク・ア・ローリング・ストーン」)
ディランの詩の世界は豊穣で、ぼくはその一部しか知らない。とはいえ、数年前から彼に惹かれるようになったのは、そこに自分のテーマと響き合うものを感じているからだと思う(それが自分の勝手な解釈にすぎないとしても)。
10セント・ストアやバス・ストップで
ひとは状況についてかたり
本をよみ、引用をくりかえし
結論を壁にえがく
(「ラヴ・マイナス・ゼロ/ノー・リミット)
生きることはかなしいよ、
生きることはさわぎだよ
(「雨のバケツ」)
時は海だが 岸辺までだ
Time is an ocean but it ends at the shore
(「オー・シスター」)
半数の人間はいつもなかば正しい
何人かのひとはときどき完全に正しい
しかしみんなのひとがいつも正しいことはありえない
(「第3次世界大戦を語るブルース」)
ちなみに最近くりかえし聞いていたのは、ジョーン・バエズが歌う「ローランドの悲しい目の乙女」。歌詞の意味は追わない。歌にひたるだけ。
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