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ボブ・ディラン

音楽

ボブ・ディラン

ぼぶでぃらん

ボブ・ディランBob Dylan、1941年5月24日 - )は、アメリカのミュージシャンにして詩人…とされるのが通例だが、或いは古の世界でもおそらくはそうであったように、流離いを生業とさえするが如き、「現代の吟遊詩人」とでも言ったほうが、より適切かもしれない。出生名はロバート・アレン・ジマーマン(Robert Allen Zimmerman)だが、後に自ら法律上の本名もボブ・ディランに改名している。


60年代初頭、ミネソタ大を中退し、ヒッチハイク等を経つつ、結果として記録的寒波とそれに起因する大雪の襲来せる真冬のニューヨークに敢然と降り立つこととなった若き日(1961年1月24日!)の彼は、グリニッジヴィレッジ周辺のフォーク・ソングを聴かせるクラブやコーヒーハウスなどに出没するようになるのだが、この前後のことを詳らかに語る為には、本稿の性質は必ずしも適格であるとは言い難い。従って我々はここでは昔日の若かりし頃のディラン青年の、「世に出るまで」の苦難と惑いの日々の実相に迫らんとするを仕方なく諦め、そしてそれに付随せる歴史的諸事実にも目を瞑り、ただひたすらに先へと急ぐことを欲することだけで一応の満足を得るように勤めねばならないのだろう*1

…即ち上述の界隈で、著しく且つ急激な速度でその自らの音楽家的技芸を極めて高度な次元(レヴェル)へまで錬成仕上げることを得た彼の、アコースティック・ギターハーモニカ弾き語りという演奏スタイルと、わざと押し殺して喉を潰したようなダミ声(?)を以てする独特の唱法とによって奏で唄われた「風に吹かれて」、「激しい雨が降る」、そして或いは「時代は変わる」といった諸楽曲は、取りも直さずこの時期の彼の代表曲たるものであり、既に彼の芸術家(アーティスト)としての地位を確固たるものにするに足るものですらあった。即ち彼の大成は、彼の晩期へまで持ち越されるより遥かに前に、既にここに現実に形成せられたのであるが、しかし彼の凡そ尋常ではありえないあまりの非凡さは、このような驚くべき高度の程度での成功を、これから先に何度も達成し続けてゆくことにこそ寧ろ存すると言えるのである。

その後ディランビートルズの影響もあり、フォーク・ギターをエレキ・ギターへと持ち変え(そして目には黒いサングラスを!)、さらに歌詞の面でも、今までのような社会的な風刺をも込めたメッセージ色の強い作風から、個人的・内省的な、そして時には詩人アルチュール・ランボーらをさえ容易に連想させうるような、象徴主義的且つ超現実主義的な詩風*2へと急速に、謂わばエレクトリック(電子音楽)的転回を遂げてゆき、いわゆる「フォーク・ロック」という新たなる未知の未踏の音楽の領野へと、果敢にも突入してゆくことになる。

そしてかかる「フォーク・ロック期」の一頂点を成すのが、1965年に発表された名曲「ライク・ア・ローリング・ストーン」(以下簡略に、「転石」と略記する)に外ならない。当時のシングル曲としては異例の長尺に亘り、また歌詞の内容としても、およそポップスとは到底言い難いような、複雑で陰影に富み、時には嘲笑的な皮肉をすら聴者の心中奥深くにさえ遠慮会釈もなしに投げ付けうるものであったにもかからずこの曲はしかし実際には、ヒット・チャートを足早にすら急速に駆け登って行ったのである。…それは即ち、この一曲によるだけでも、ディランは自らのその名をロック史に、半ば永久に刻印することとなった、と言っても、必ずしも過言ではあるまいと想われる程の奇跡的な珠玉のテイクであったことは、コアなファンの間であってさえも、ほぼ異論の余地のない所であるだろう。

以上のようにディランが特にビートルズに触発されたことをきっかけとして急速にロック・シンガーへと脱皮を遂げていったのに対して、一方でビートルズの方もディランの方から(ドラッグをも含めた?)強い影響を受け、「ラバー・ソウル」という深みのある作品を創り出すことによって、独自の新機軸を明確に打ち出してゆくこととなる。

ところでまたディランは65年から翌年5月末にかけて、ザ・バンドの前身であるレヴォン&ザ・ホークスをバック・バンドに据え、自身初のワールドツアーを断然、敢行するに至る。このツアーは各地で、称賛とブーイングとを同時に受けるという奇態なものであり、特に「ロイヤル・アルバート・ホール」で(と、誤った伝説として流布されることとなった)「ユダ!(裏切り者!)」と客から罵られた直後の「転石」の名演は、ロック史に於ける一つの画期を成す、まさにエポック・メイキングな、象徴的な事件として、既に歴史上の史実に属する事柄であるとさえ言われうるところである*3

ディランはその数日後の、今度は本当に「ロイヤル・アルバート・ホール」で行われた、最後には燃え尽き燃え殻のようになった満身痩躯の凄絶な最終日ライブを最後に、爾後は長くツアーから遠ざかりゆくことになり、再び彼が「旅の空」へ出立せんと決意するまでにはおそらく、実におよそ8年もの幾星霜が彼の前を肅然と音もなく、流れゆき過ぎるのを待たねばならなかった筈なのである。

その間の諸活動の中で最も特筆されるに価するのはやはり、1973年の、自身も出演した映画の劇中歌としての「天国への扉」の発表であろう。この曲は或いは一般的には、「転石」よりもさらに有名であるとも言えるであろうのであって、実際この曲は彼の中で、最も多く様々の人にカヴァーされた楽曲であるに相違ないのである。

さて、漸くにしてツアーを再開した74年に発表されたアルバム『プラネット・ウェイブズ』は、ザ・バンドの強力なバッキング(伴奏)を得つつ幾多の佳曲を収める名盤として知られ、ディランのアルバムとしては初の全米一位を獲得した。その中でも名曲「フォーエヴァー・ヤング*4」は、ディランとしては珍しく明快で理解の容易な優美な歌詞と、そしてサビの麗しき詠嘆の如き音律(リズム)とを持つ楽曲として夙に名高く、この曲も例によって、多数のミュージシャンらによってカヴァーされ、「リスペクト」され続けているのである。

翌年75年には、最高傑作との呼び声も高いアルバム『血の轍』を発表、これもヒット・チャート一位を獲得。従って我々は本アルバムの芸術的諸価値に就いて多分に云々しうるところを既に持っているが、これも前述と同様の諸事情から、我々はその割愛を余儀なくされる者である。

さらに1976年発表のアルバム『欲望』もまた三作連続で一位にランクされる栄光を得たが、このアルバムにも収録された「ハリケーン」で彼は、或る黒人ボクサーの冤罪問題を直接的且つ具体的な歌詞に乗せて切迫した緊張感溢れる曲調で以て歌い切ることで結果として、実に久方振りに、恰も60年代初期のプロテストソング時代をも彷彿とさせるような、メッセージ性の強い楽曲を再び世に問うこととなった*5

さて、これ以降もディランの八面六臂でさえある活躍は、80年代から90年代までの間に幾つか断続的に訪れた苦難の日々をそのうちに、一種の休止符の散在せるが如くに所々に挟み込みつつも、総体としてみればほとんど持続的に連綿として、その歩みを留めることは決してなかったと言ってもいいだろう。――以下我々は本意としては、70年代後半から現在に到るまでのディランの活動的な歩みを概括的に示し置きたいのだが、既にして紙幅は尽き果て、其れ以上の大幅な超過にさえ、我々は今実際に立ち至っているのであってみれば、本稿は最早、締め括りの為の終局的概括をのみ示すべき段に臨んでいるに違いないのである。


ボブ・ディランは、元来はダンスミュージックとして生まれたロックンロールに、独特の詩的形象と作曲法とによって或る意味的な深みを与えうることに成功し、今日に於いて既にロック史上の最重要人物の一人として数えられる程の評価を賜るのみならず、ファンらによって持続的に「ネヴァー・エンディング・ツアー」と称され続けるに至った、80年代後半からまさに終わることを知らずに継続せられて来たライブツアーを、現在でも精力的に続けており、その全く隠遁の兆しさえ見せない活躍振りはまさに、「生ける伝説」の名に相応しいものであると言えよう。

また近年では、ノーベル文学賞の候補にも上がるなど、一人の歌い手(或いは彼の若き日の有名なインタビュー会見の言に即するならば、「ソング・アンド・ダンスマン」(!))としてのみならず、詩人としての文学者の才もが極めて高く評価されている(但し我が国では、無論言葉の壁が大きいためだと想われるが、彼のこの方面に関する評価はほとんど正当に為されているとは言い難い)。

最早、今日のアメリカン・ポップ・カルチャーの簡便な来歴を一通り概観するだけでも、そこに欠かすことの出来ない存在と看做される所以なのである。

*1:詳しいことを知りたい向きには、おそらくhttp://blogs.villagevoice.com/music/2011/01/bob_dylan_arriv.php内の諸記述が、何らかの参考には資するのだろう。

*2:このような詩作の典型例として我々は、1965年に発表された、「ミスター・タンブリン・マン」や「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ、ベイビー・ブルー」らを挙げることが出来るだろう。またこの時期のディランのかかる「難解」ではあるが鮮烈なイメージの豊穣を伴う詩群を、薬物(ドラッグ)の作用から解釈する試みも少なくないが、ディラン自身は、楽曲を作るにあたってドラッグが重要であったことは嘗て一度もない、という趣旨の発言を嘗てどこかでしている、らしい「〔要典拠〕」(!)。

*3:このツアーは、ディランの全経歴(キャリア)の中でも、最も特筆すべき事柄に富んだ一時期に他ならないのである故、それだけまた最も紙幅を費やす必要があるところであるのだが、本稿は如何せんまさにその紙幅に制限を強く有するのである以上、これらの記述は、他の機会を期し、今はこれを割愛せざるを得ない。

*4:ちなみにこの曲は、自身の末息子に対して贈られた曲であるとする説が有力である。

*5:のちにこの悲劇の拳闘家(ボクサー)たるルービン・ハリケーン・カーターは、様々の紆余曲折を経つつも、終局的には釈放せられ、かかる事実を元にした映画も公開せられるに及び彼の斯様な惨劇の連続は、或る程度はそこで断ち切られ、そしてそのような一旦切り離された悲しみの連鎖が、再び未来の何処かに接続されるされることのこの世に生じないことがその映画でも、そしてそもそもディランの「ハリケーン」の中でも、、切に願われていない筈がないのである。