『クレイジーホース・パリ 夜の宝石たち』

■代休をとる。渋谷ル・シネマで1時過ぎの回が満席。しょうがなくカフェで読書。斜め前にいた女性は松田純に似た顔立ちで美人だった。白Tから見えるブラがエロい。

Bunkamuraル・シネマ『クレイジーホース・パリ 夜の宝石たち』監督;フレデリック・ワイズマン
キネ旬で五つ星モードほどに優れているとは思わなかったが、未だ見ぬ世界へ誘ってくれる貴重なドキュメンタリーだと思いました。パリにあるキャバレー芸術についてのドキュメンタリー。構成や編集は良い意味でも悪い意味でもワイズマンのままだと思った。というのも観察映画って演出らしい演出を施すことが出来ないので、というか、あえてそうしているという部分もありながらも、まぁ観察映画問題は一回置いとくとして、もうこんなに華のある集団を撮っているので、つまらなくなるはずがない。逆に言えば、しっかり三脚立てて、その世界の人たちに変に介入せずに作るワイズマンのスタイルにとても合っている題材だと思った。作品はアングラ芸術に携わる人間の葛藤や、それに向かうモチベーションや夢のようなものが語られ、それぞれが魅力のある言葉でそれを語っている。

逆に言えば静と動がしっかりしているので、言葉がしっかりとこちら側に沈んでくるのだろうか。語りのシーンと、動きを魅せるシーンとはきっちり分かれている構成であった。その中でも私はクレイジーホースについて語るシーンがより魅力的に感じられた。

一人のスキンヘッドの芸術監督がこれは夢だと語る。夢じゃないかと思って何度も自分の身体をつねったりする、さらにもう一人の女性は誘惑、エロスの表現は夢だとも言う。どれもそれは心の底から自然と発せられた言葉で嫌みが全くなく、すっと観客側の心にもおちてくる。さらにスキンヘッドの芸術監督は「人に醜い人はいない」「潜在的な美を発揮できるかどうかだ、だからクレイジーホースの女性たちは美しい」と語る。つまり人を誘惑することそのものを舞台芸術にするということは、人間の持つ本質的な美に訴えるということだ。だからそれに携われることは「夢」だということになる。

これは至極ハッとさせられる言葉だろう。いかに自分たちは自堕落な生活をし、「美」という概念を放棄しているのか、そして他者を誘惑することから逃げているのかを感じさせられる。しかし誘惑しなければ、どれほどつまらない人生になるだろうか。『クレイジーホース・パリ 夜の宝石たち』はキャバレー芸術はその一瞬の表現に喜びを感じるものたちのだろう。

その彩られた舞台演出や、華やかな衣装、細部へのこだわりは実に画になり、かつ人間の持つ身体の神秘を感じさせるだろう。我々の人生はこのような舞台と同等の可能性を持つ事が出来るのかと思うともう少し気を使って生きた方が良いなと思ったのである。

技術的な視点では都市のショットの連続や、一つのショットがとても上品に感じられた。逆に言えばその上品さが物足りない部分でもあるのだけど、私の作品にはどれも足らない部分なので、参考にしようと改めて思った。ハイビジョン撮影され、デジタル上映されたドキュメンタリーにはもう劇映画との差異がさほどないかもしれない。

■BD『メリーに首ったけ』監督:ピーター・ファレリー, ボビー・ファレリー
細部の下ネタの使い方と、それを如何にキュートに面白いシナリオに落とし込むかということでとても参考になった。下ネタとブラックジョーク全開だけど、どれも笑いに転ずるタイミングやバランスが上手過ぎる。そのバランスは今後の自作に取り入れたい。逆に言うと日本映画は下ネタの扱いにビビり過ぎなのかもしれん。もちろんそれだけではなくて、メリー自身が恋愛の相手を見つけるために、ドタバタがずっと繰り返される、メリー目線でも女性論として面白い見方が出来る部分がある。

■DVD『エドtv』監督 :ロン・ハワード
とても面白かった。普通のメロドラマというか、普通の人間を24時間、テレビで生放送される。だがそんな普通の生活を過ごした人間が、どんなときにもプライバシーが侵されることで、普通の人間でもメディアに浸食されれば異常な事態になるという状況を非常に軽やかな語り口で描写していく。

これはいくらでも社会的な切り口で語り合える題材であり、かつ全体の演出の質感は監督次第の裁量によって変化出来るような感じだが、今作はひたすらユーモアを忘れず、登場人物たちの個性が随所に光った演出をしていたように思う。メディアとは一見撮られる側が全てを曝け出しているような感覚があるが、それは同時に撮っている側の主観、意識、発想が露に出る。だからこそ、ここでエドという一見おバカな人間を採用することで、撮っている側のバカ者を撮って笑いに転化する目的は、やがてシリアスな展開になればなるほど、エドという男の存在を扱いずらくなっていき、やがてプライバシーのない過剰な世論と共に熱狂しだし、エドの生活はカオスへと転ずる。しかしエドはバカな青年ではなかったのだ。メディアに囲まれることで、メディアの習性を逆に理解し、撮っている側の意識を丸裸にしてしまおうというラストシーンにおけるエドの大逆襲へと繋がる。

まさに90年代テレビ時代のメディアへの批評として、このような映画を作る事でそれを行うというのは、なんとユーモアあることだろうか。そしてその切り口としてのロン・ハワードの手腕に酔いしれる一作である。バカ兄貴ウディ・ハレルソンとの対立→和解は何とも妙な痛快劇。さらにジェナ・エルフマンの存在がピカイチ。ロブ・ライナーマイケル・ムーアの出演もしっかりと楽しめる要素だ。

■DVD『暗戦 デッドエンド』監督:ジョニー・トー
約90分の間にこれほどに面白い展開を入れられるジョニー・トー先輩は一体何者なんだろうか。ここまで面白い作品をさりげなく出していて、これといって日本で注目されていないのは何ともったいないことなんだろうか。まぁそんなことは良い。設定上やや無理矢理な状況設定があるにはある、アンディ・ラウの余命の設定及びそんだけ動けりゃ元気じゃないかとか、諸々の仕掛けの強引さはあるものの、それも含めて魅せる、魅せる。ラウ・チンワンの茶目っ気のある表情と幅のある演技が何といっても魅力的である。どうしようもなく使えない上司と、つまらない事件が回ってきそうになる現場の狭間にいる敏腕刑事。香港映画はとにかく二人の男を主軸にそこで対立や、暗に意味する友情のようなものを描くのがとても上手い。さらにそれを発展させ「チーム劇」として機能させたのが「エグザイル/絆」だとするならば、こちらは1vs1のシングル戦の様相を呈した駆け引きそのものであろう。そこで色気や、細部に渡る映画的な仕掛け、そしてどうしたってアガるアクションのバランス感覚。そして長方形の画面構図に対して、立つ男。そこに立っている男の無言の語らい。ジョニー・トーはどんどん台詞をそぎ落とし、やがて男が立っているだけで、その状況を説明してしまう、つまり語らないことで感情を伝える、まさにそれが映画的としか言いようがない状況を作り上げてきたが、本作ではむしろトーの中期作にあたる作品で、その比重はやや言葉の部分が多いのだが、そこでも随所に挟む表情で魅せる部分とで見せきっていく。つまり男と男が闘う理由、そこのサイコロジーが圧倒的に上手くかつロマンティックなのだ。ここで言うロマンは「やや無理のある設定」が上手くまとまり、物語として機能してしまう魔法がかかってしまってることにも要因が一つあるように思える。つまりプロレスのVTRにも参考にすべき点が多くあるということだ