親から死ねと言われたことは、生涯恨み続けるだろう

誰にも好き嫌いがあるように親にとって好きな子どもと嫌いな子どもがいて、姉は前者で自分は後者に分類される人間なのだと中学、高校に進学した辺りから思うようになりました。
社会的には
「明るくポジティブ思考」なのが正しくて、「暗い性格」は悪
「協調性」があるのが正しくて、「一人を好む」のは悪
などという身震いのするような下らない二元論で、後者を是(ぜ)としない風潮があり、自分が生き辛いのもこういった二元論から完全に脱却しきれていないからだろうと思います。
この二元論を押しつけてきたのは他の誰でもない母親で、感情的でかつ自分にとっての理想の子ども像と言えばいいのか、気に食わない部分があればとにかく否定してきました。
親から言われた小言は数えきれないです。
うろ覚えですが小学校の二年生か三年生に、チャレン○だったか○研ゼミの勉強を自主的に取り組んでいました。
学習した内容までは覚えていませんが、カブトムシの写真が載った文章問題だったと思います。
物心つく前に母親の友人から買ってもらったカブトムシが飛行している瞬間を捉えた表紙が特徴の昆虫図鑑を何度も読んでいて、夏には何十匹ものアブラセミを虫籠にぎゅうぎゅうに詰めて遊ぶくらいには虫が好きだったので、その問題にも興味や意欲を持っていました。
四本足の座卓に教材を並べ、問題を解いていると玄関の方からひょいと現れて
「勉強なんかしないでいいから外で遊べ」
と言われ勉強は中断し、この言葉が忘れられずにもやもやした感情を抱えたまま成長した数年後に
「勉強しろ」
と言われた時は混乱しました。
外遊びが好きな快活な子どもになってほしかったのか、賢い子どもになってほしかったのか、母親の本心は自分には分かりません。
自分はどちらにもなれませんでした。
何者にもなれなかった。
漢字練習や文章題をしていれば
「字が汚い」
と、何度も書き直させられました。
スイミングスクールに通わされ(行きたいとはいっていないが何故か)続けていましたが、ある時姉が夕方のテレビアニメ(ハレ○ゥ)に釘付けになっているのが羨ましくて辞めました。
親には
「何で途中で辞めるの!」
と、割と強く叱られた覚えがあります。
褒められた記憶はほとんどないのに、叱られた記憶や否定された記憶だけスポンジが水を吸うように自分の心へと吸収されていて、今でも自分は継続することの尊さやわずかな幸福を喜べない欠落した人間だったのかと自問自答しています。
母親に文句ばかり言われて勉強に嫌気がさしてからは、ゲームにのめり込んでいました。
小学校に上がる前からファミコンがあって、3、4歳頃に母方の実家の近くにあるゲーム屋でゲームボーイポケモン赤とDONKEY KONG LAND2  (1996年11月23日(土)に発売した作品のようです。黄色いカセットのやつね。)を買ってもらい、幼少期からゲームに触れられる環境だったのも大きいと思います。
今思えば、母親に対して従順すぎたのかもしれません。
「死ね」と言われたのは登校拒否していた中学生の時でした。
思い返せば小学生の時はしつけのつもりで叱ったのだと思えますが、この頃から
「お前はいらない子どもだ」
と露骨に表現するようになっていました。
TVにゴルフ選手の青年が映った時
「同じ子どもなのにね〜」
と明るい声調で言われた時、自分に自信がなかったからか狼狽して
「同じじゃないだろ!」
と泣き喚いていました。
母親は
「同じでしょ」
と壊れたレコードみたいに、その言葉を繰り返すだけでした。
あの時比較されて苦しかったのは有名人と比べられたからというよりも、自分が社会的に不必要な存在で家庭からも見放されている落第者であるということを、自分自身否定できなかったからだと思います。
気持ちの不安定な時期に死ねと言われたことは、おそらく一生忘れられないでしょうが、何とか折り合いをつけたくて投稿しました。