議論は無意味か?

【システム4】


☆議論の前提


数ヶ月前から、とある諦念が形成されつつあります。ネットの学究的な議論に関することです。


哲学などの抽象的な学問に数年前から興味を持っているせいで、mixiでその手のコミュニティに入り、多少書き込むようになりました―――今では、ギリシア哲学とかドイツ観念論が扱うような抽象的な議題よりも、もっとアクチュアルなテーマを扱うアメリカの政治哲学のほうに関心がシフトしていますが。


当然、異論があったりします。たいてい、内容そのものを正確に読んでいるのではなく、言葉の定義のズレからくる初歩的なミスだったりするわけですが、


稀に内容そのもののことで、議論したりすることがありました。それでも、内容がその人の価値観と硬く結びついていていると、いくら論理的に反論しても、もう相手は話が聴けない状態になります。


その体験を通じて、学究的な議論が建設的にならない原因は、次の二点に集約されると思います。


1.議論のルールを決めないこと

2.相手の価値観に非寛容なこと


1のケースは、だいぶ多いと思われます。最低限必要だと思うルールは、「言葉の定義を(暫定的に)はっきりさせる」ということです。


2のケースは、ふたつに分けて考える必要があります。


a.どこまで寛容になるのか?

b.どこまで批判的になるのか?


その線引きは、きわめて恣意的にならざるをえません。個人の好悪感情に基づくことが多いです。ちなみに、好悪感情と正誤判断は、個人の主観の中で、かたく結びついています。


つまり、好き=正しい。嫌い=間違っている。このメカニズムを深く自覚しないと、自らの脊髄反射的な反応から離れることは難しいと思います。


では、何に従うのが、よいなのでしょうか?それは、「具体的な事実」です。言い換えると、「役に立つのか?」ということです。いくら、その価値観が個人的に嫌いでも、それがある面で「利他的」である。つまり「役に立つ」なら、「寛容」になるべきだ、ということです。逆に言えば、「役に立たない」なら、「批判的」になるべきです。つまり、プラグマティックな発想です


しかし、大して発言力もない個人がこんなところで、書いたところで、無駄なことは分かりきったことです。義務教育の中でトレーニングとして組み込むしかない。


したがって、これらのルールが守られない中でのネットの学究的な―――本当に学究的だとはほとんど思っていませんが―――議論のほとんどは、その意味がありません。だから、「反論」そのものも、無駄である。と考えるようになりました。


だから、反論めいたことが書かれても、自分は真正面から反論することはやめて、あたかも人事のように「じゃあ、ちょっと整理整頓しましょうか」と感じで、議論を整理することにしています。議論の無駄を徹底的に省きたいからです。

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☆論争の種類


今までは、ネット上の議論の話をしていましたが、議論の種類をちょっと整理してみます。


1.ルール作成のための論争

2.学究的論争


1について。これは、「民主主義」を実現することとリンクしています。「民主主義」とは、単純に言えば、「国民が主権を持つこと」ですが、これだけでは意味が分かりません。多少、整理してみます。


a.国民が自律性を持つ。

b.国民が守られる。


aについて。異なる価値観・世界観を持っている個々人が、他者を侵害しないようにしながら、それぞれの幸福=善を追求するための自己決定能力と責任能力を持つ(幸福追求権)。


bについて。公共の福祉のためのセーフティネットが張られること。自己決定の結果、落ちぶれた人、もともと不公正な立場の人をサポートするための制度がある(生存権)。


これらのふたつを実現させるための民主主義的な決議における「公正さ」が必要です。「公正さ」がないと、強いものが得をする、弱肉強食の世界になってしまいます。それは、上記の定義からすると、民主主義ではなくなります―――各人に保障された生存権を中心とする諸権利が機能しないからです。リバタリアンはそれでもいいんだろうけれど。


どのように「公正さ」を追求するかについて、どのような議論が展開されているのかは、後日書きます。


ルールは、憲法、法律、条令、規則などいろんなレベルがありますが、結局、絶対的な正義の基準などありません。社会的な力関係に基づいて決められます。


すべてのルールの親方だと思われている「憲法」ですら、原初的な暴力として、押し付けられるものです。日本の戦後の憲法についてイメージすると分かりやすいですが。


社会的な力関係で、正義が決まる、というのが端的に表れている例は、民法における「利益衝量」という考え方です。どちらを勝たすかは、双方の利害関係を見て決める。1が2より利害をたくさん侵害していたら、2を少し勝たせる、という感じです。


社会的な力関係の中で、ルールに従って、正義を通すための論争、というのが、1です。


2については、ローティの議論が参考になります。


c.「認識論 epistemology」的なタイプ

d.「解釈学 hermeneutics」的なタイプ


cは、絶対的な真理について、合意する営み。

dは、意見の不一致も、さらなる対話の生産的な刺激とみなす営み。


上記で指摘したようなことは、cのレベルで、不毛なやりとりをしているということです。


学究的なやりとりをするならば、dがいいと思います。


おわり。


ちなみに、今回の書き込みの一部は、「コミュニタリアリズム」という題名の書き込みの、「公共的な善」の説明を補足しています。


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まとめ

☆学究的なやりとりであれば、「解釈学」的なやりとりをする。そうでないなら、「反論」は無駄。

☆民主主義は、1.幸福追求権 2.生存権 を保障する制度。