第2次世界大戦中の1942年。ルソン島のバターン半島に陣をかまえた米比軍と日本陸軍の第十四軍(本間雅晴中将)の間の戦闘において、米比軍は食料不足とマラリア等の伝染病の蔓延により持久に耐えられず降伏。日本軍が米比両軍の捕虜を収容所のあるサンフェルナンドまで約100km歩かせ、その間約17,000人の米比捕虜が死亡した事件。
日本軍の兵站(に限らず後方支援能力全般)の低さからすれば、約10万人以上と言われる捕虜を現地で管理することも機械力で移送することも極めて困難であるのは明白であり、発生するべくして起きた事件と言える。
が、もちろんマッカーサー*1にそんな自分勝手な日本の言い分が通じるはずもなく、戦後の軍事法廷において、本間雅晴中将が銃殺刑となった他、多数の士官、下士官が死刑あるいは有罪判決を受けた。
*1:や行進の生存者