室町時代の武将。伊達尚宗の長男。従四位下。足利義稙に偏諱を賜る。 従五位下に叙せられ左京大夫に任ぜられる。後に従四位下に叙せられ奥州探題となった。 天文元年(1532)伊達郡西山城に移る。棟役日記、段銭帳を作り、 同5年老臣12人と169ヶ条の政法を議定し、『塵芥集』を編纂した。 同11年、三男・伊達実元の上杉氏入嗣問題で嫡子・晴宗と争い 周囲の豪族を巻き込んだ大乱となった(天文の乱)。 同17年、稙宗は伊具郡丸森城に隠居し乱は終息。
東北の先進的巨大山城 最近になってにわかに注目を集めているのが、東北屈指の巨大山城である桑折西山城である。この城は単にデカイと言うだけでなく、城内に政庁なども置いて一族を城内に集め、さらには重臣の館も城内に集めた上で城下町も整備するということが行われていた。実はこのような城の整備は織田信長による小牧山城が最初と言われていたのだが、信長に先んじること30年も前に東北でこれをやってのけていたのが伊達稙宗、政宗の曾祖父だという。 桑折西山城遠景 というわけで、例によって「お城クン」こと千田氏が現地を訪問して、ハイテンションのレポートをしている。ちなみに今はかなりさかんに発掘調査が行われている模様。小…
戦国時代の出来事を年表にまとめた。 戦国時代 は 日本の歴史の時代区分の一つである。 前は 室町時代 後は 安土桃山時代 広義の室町時代に含まれる。 戦国時代の概要 戦国時代の文化 戦国時代の出来事 1449年 (文安6年) 足利 義政 8代将軍に 1455年 (享徳3年) 享徳の乱 1465年 (寛正5年) 後土御門天皇 即位 1467年 (応仁元年) 応仁の乱 1470年 (文明2年) 京極騒乱 1471年 (文明3年)山名豊之の殺害事件 1473年 (文明5年) 足利 義尚 9代将軍に 1479年 (文明11年) 毛利次郎の乱 1487年 (長享元年) 長享の乱 1487年 (長享元年)…
陸奥・桑折西山城 所在地:〒969-1651 福島県伊達郡桑折町万正寺本丸 城地種類:山城。 築城年代:天文元年(1532年)頃か?。 築城者:伊達氏?。 歴代城主: 伊達氏。 文化財史跡区分:国指定史跡。 中館~西舘間の空堀 福島県伊達郡桑折町万正寺本丸に、日本100名城や続日本100名城ではないが、国の史跡として良く整備された山城があり、巨大な空堀や桝形虎口等が施された見事な山城があるというので行ってきました。2023.10.7.登城。 桑折西山城概要: 産ヶ沢川に北~東~南と囲まれる丘陵の先端に位置しており、(標高215m、比高107m)現在の白石市~福島市間を繋ぐ街道沿いに築かれた山城…
朝、今日も雨だったのでバイクを漕ぎました。シャワーを浴びて体重を測ったら54.9kgと先週より0.8kg減っていました。今年のブログはこれが最後です。ありがとうございました。良いお年をお迎え下さい。 「日本史1200人」404 相馬盛胤(1529〜1601) 相馬氏第15代当主、14代当主相馬顕胤の嫡男。母は伊達稙宗の娘、妻も伊達氏一族の娘で、伊達氏とは深い血縁関係を結んでいた。しかし1542年に起こった伊達稙宗・晴宗親子による「天文の乱」のために両氏は3代にわたる死闘を演じた。1576年には伊達輝宗・盛胤の両軍ともに互いの領地へ攻め込むなど戦いは激化した。1578年に越後の上杉謙信が急死して…
朝、海沿いを走ってきました。久しぶりに暖かく、Tシャツ・短パンで走りました。 「日本史1200人」402 蘆名盛氏(1521〜1580) 蘆名氏第16代当主、父は第15代当主・蘆名盛舜。16歳で伊達稙宗の娘を正室に迎え、20歳の時に父から家督を譲られた。山内氏を討って会津における勢力を拡大し、伊達氏の天文の乱では稙宗方から晴宗方に転じて勝利に終わった。この後、本格的に中通りへの進出を開始したが容易には進まなかった。40歳で家督を嫡男・盛興に譲って、剃髪して止々斎と号したが、隠居後も政治・軍事の実権を掌握した。さらに盛興が29歳で急死した際には、人質としていた二階堂盛隆に盛興未亡人を娶らせて家督…
昨夜は3組の夫婦で楽しくお酒を頂きました。最後にジョッキで飲んだウィスキーが効いたようで、今日のランは休みました。 「日本史1200人」401 蘆名盛滋(1482〜1521) 蘆名氏第14代当主、会津黒川城主、父は第13代当主・蘆名盛高。武勇に優れ、18歳の時には父に従って猪苗代盛頼を討っている。しかし次第に父・盛高と対立を深め、1505年に重臣・松本氏の支援を受けて盛高と合戦に及んだが、敗れて伊達尚宗の下に逃走した。後に盛高と和解して帰国し、盛高の死により家督を相続した。1520年には伊達稙宗の援軍として上山城主・最上義房と戦っている。隠居後、弟の盛舜が家督を相続したため、隠居中に生まれた実…
栃尾城の本丸と切岸 栃尾城のはっきりした築城時期は不明だが、城としての体裁を整える以前より砦として使われていたと伝わる。ただ、険しい山上の立地や、目ぼしい記録も無い事から、恒常的に使われていなかったのかもしれない。 最初に城という形として築いたのは、宇都宮氏の配下として主家を左右するほどの実力者であった芳賀高名(禅可)とされる。 宇都宮氏は、将軍尊氏と弟直義の対立である観応元年(1350)からの観応の擾乱の際に尊氏側に付き、直義側だった上杉憲顕に代わって乱後に越後守護職を得、出家していた禅可に代わって子が守護代となったのだが、その実権は禅可が握っていたようだ。よって、禅可が越後国内の拠点のひと…
昨夜は近所の友だちと5人で楽しく飲みました。二晩続けて外で飲んだので、朝は起きられずランを休みました。先程、ブログのアプリが不具合になり、以後アプリ自体が開かなくなり慌てました。ネットの情報を参考にアプリを一旦アンイストールして、再度インストールしたらOKでした。 「日本史1200人」393 伊達稙宗(1488〜1565) 武将、伊達政宗の曽祖父。父の死去に伴い26歳で家督を相続して14代当主となった。将軍・足利義稙に多額の進物を送り家格を上げ、さらに婚姻外交を織り交ぜて勢力を急激に拡大し、周辺の大名を次々攻略した。1522年には室町幕府においては前例のない陸奥守護に補任された。1532年に居…
お疲れサマンサです! もう合戦ですよ・・・ 早い・・・・w 今日はなんと!さとPがブログ更新してますよ! blog.jp.square-enix.com 明日は雨か・・・・(; ・`д・´)…ゴクリ…(`・д´・ ;) 冗談はさておき、今回の武田塾イベントについても言及してますね。 今回の4人の天についても話していて興味深いです。 個人的には、来期に覇3.5倍防御武将出ると思ってたのですが 今回収録されてて驚きでしたね。 覇じゃないですが、実質覇みたいなもんw イベント限定ですからねぇ・・・ 伊達稙宗さんに言及してたのも面白かった。 ソハヤの上位互換来たなぁって思ってたけど、きちんと説明され…
待ちに待った食欲の秋は いっぱいもぐもぐタイムすること どこかのかわいい煙の妖怪の如しもくっ モグモグモグ((●´)з`))) モグモグモグ こんにちは~ うわさの煙の妖怪 のろしもく 季節の変わり目 衣替えということで 戦国IXAでも 武将カードの入れ替えのようですもく 10月 の 追加武将 が 公開されました もく 追加されるのは 【 極 】 酒井忠次さん 伊達稙宗さん 長連龍さん 永田徳本さん 【 特 】 松平信綱さん 武田義信さん 桂岩院さん 【 上 】 浅利信種さん 【 序 】 赤松広通さん 以上の 9 名と 武田信玄さんから勝頼さんの時代の重臣達で 「 武田四天王 」と…
最近、小説『一領具足』を書き終えた。 小説を書きながら、四国を制覇した長宗我部元親が、秀吉死後の天下がどうなるかについて、何の方途も示すことなく死んだのは、豊臣政権というものに魅せられたからだという結論に達し、そのように書いた。 元親は若い頃、まだ信長が美濃を制していない頃から信長を意識し、信長が中央を制してからは、信長と外交で渡り合った。 外交の目的は、信長に四国の平定を認めさせることであったが、信長が元親の四国平定を認めないなら、転じて反織田に回るという含みを持たせ、懐に短刀を忍ばせて向き合っているような外交だった。 しかし信長が勢力を拡大するにつれ、元親は劣勢になり、ついに信長は、元親に…
2023 年 8 月 10 日( 木 ) 戦国IXA 新たな舞台が開幕・・・! 【 虎王咆哮 ~ 已まぬ烈風、消えぬ炎 ~ 】 ↓↓ 新たな舞台の詳細はこちらもく https://sengokuixa.jp/season26/ 新たな舞台では 新【 傑 】武将カードとして 『甲斐の虎』の異名を持つ あの傑物が登場するもく!!!! そして 大殿ならびに 新【 天 】武将カードとして 12 名の猛者達が登場するもく!!!! ↓↓ 【傑】 の詳細はこちらもく https://sengokuixa.jp/new_rarity/ 新たに【 傑 】武将カードとして登場する 武田信玄 さんは、戦国最強と謳わ…
【 村田館跡 】 評価 ★★ 別 名: 村田城 村田要害 所 在 地: 柴田郡村田町村田字追 築城年代: 嘉吉年間(1441~1444) 築 城 者: 村田九郎業朝 区 分: 平山城 現 状: 村田城址公園 嘉吉年間(1441~1444)、下野國(現在の栃木県)小山氏庶流で常陸國(現 在の茨城県)真壁郡村田庄(現在の明野町)からこの地に移り住んだ小山九郎業朝が村 田姓を名乗り、館を構えたとされる。 その後村田氏は代々伊達氏家臣として仕え、天文7年(1538)、村田紀伊守近重 は柴田郡六ヶ村のほか合計134貫542文の所領が与えられています。 しかし、近重には嫡子がおらず💦伊達稙宗の九男・宗稙を…
梅雨の頃。ジメジメが続きますが,こんな日々を癒してくれるのが紫陽花。 紫陽花は最近いろんな品種を見かけるようになって,近所でも楽しむことができますが,各地にある「紫陽花寺」を訪ねるのも楽しみです。 先日,福島市の紫陽花寺「陽林寺」を訪ねてみました。 陽林寺について アナベルとお地蔵さまがお出迎え かわいいお地蔵さんの花手水 お寺の裏手には「あじさい山」 本堂には吊るし雛 再び梅雨空の下へ おわりに 陽林寺について 陽林寺は福島市の割と南の方にあります。市の中心部から,車で15分くらいでしょうか。 このお寺は「位作山」とも。伊達政宗の曾祖父である伊達稙宗によって,1513年に開かれたとされていま…
家康は生涯で16人、内訳としては十一男五女をもうけた。現代的な常識からすればとんでもない子だくさんだ。ただ、戦国時代の大名、というよりも近代以前の有力者にとって子だくさんは別に珍しくもない話だった。例えば伊達稙宗は男女合わせて20人以上の子を作っている。もちろん、現代のように一夫一婦制でこれだけの子を為すのは難しい。大勢の側室がいたからこそ可能であったわけだ。 では、どうしてそんなに子を作るのか。武家をはじめ、有力な家というものは存続のために当主の血を残すことを至上命題とする。しかし、現在と比べて栄養・医療が未熟だった時代のこと、子どもはいつ亡くなるかわからない。戦乱の時代であれば長じてもポッ…