南宋の官寺の制にならった臨在寺院の寺格で、 「五山」を最高とし、「十刹」がこれに順じるもの。 更にこの下に「甲刹」が国々に一つづつ。
【京都五山】 (1).「南禅寺」〔ナンゼンジ〕 (2).「天竜寺」〔テンリュウジ〕 (3).「相国寺」〔ショウゴクジ〕 (4).「建仁寺」〔ケンニンジ〕 (5).「東福寺」〔トウフクジ〕 (6).「万寿寺」〔マンジュジ〕
さて現代において最も寺院数の多い仏教宗派は何かというと、実は曹洞宗なのである。文化庁が発行している宗教年鑑によると、曹洞宗だけで1万4000を超えるのだ。次点が浄土真宗で本願寺派が約1万、3位が大谷派の約8000である。これまでの記事で紹介した、室町期に盛んであった臨済宗はというと、妙心寺派が最大でその数は約3000である。 鎌倉期から南北朝期にかけて、曹洞宗はまだ小さい教団でしかなかった。ひとつの独立した宗派というよりも、同じ禅宗ということで臨済宗に数多ある林下諸派――大覚寺派や妙心寺派と、同じようなものとして一括りに捉えられていたのである。この記事では、如何にして曹洞宗が室町期以降にその教…
次に禅寺における生活スタイルを見てみよう。禅僧たちは、基本的には僧房において集団生活を行っていた。彼らを率いるのは、既に悟りの境地にいる(はずの)師匠である。師と共に生活し、その一挙手一投足に注目し、そこから何らかの意味を見出すべく日々坐禅し、公案に挑むのである。大寺院であれば数百人規模の禅僧たちが、一堂に会して生活していたわけである。 とはいえ時代が下るにつれ、五山における禅風に変化が起きてくる。まずは禅の密教化である。初期臨済宗の特徴は兼修禅であったから、必ずしも密教を否定する立場にはなかった。禅僧の中には伝法灌頂を受けるものなどもいたのである。しかしその場合でも、密教はあくまでも禅と並列…
雪舟等楊が美濃国伊自良の楊岐庵を描いたとされる山水図。雪舟は文明十三年(1481)秋に美濃国の正法寺を訪れており、同寺の春蘭寿崇に招かれて楊岐庵にも赴いたとみられる。 雪舟の美濃訪問 楊岐庵 参考文献 雪舟の美濃訪問 文明元年(1469)七月、雪舟は中国明朝から帰国。文明八年(1476)三月には豊後国にいたことが確認され(「天開図画楼記」)、文明十一年(1479)冬には周防に滞在し、山口を拠点に活動していたという。 文明十三年(1481)秋、雪舟が美濃国の正法寺を訪れていたことが万里集九の「梅花無尽蔵」に記されている。正法寺は美濃守護土岐氏の居城である革手城(岐阜市正法寺町)の隣に位置し、この…
今回は大字久田は中尾部落の名所の一部を紹介します。薄暗い写真が多いのですが、実際に薄暗かったのでそのまま掲載することにしました。今回紹介する名所をめぐれば、立派な石幢を何基も見学できます。まことほんとに、新田地区は石造文化財の宝庫です。 なお、今回の名所は道が狭くて駐車場所に困ることも多いし、特に農繁期には地域の方の迷惑になりそうなので、歩いて行った方がよいと思います。ちょっと遠いのですが、学校が休みの日であれば新田小学校の正門の辺りに邪魔にならないように停めることができます(学校のある日は迷惑になるのでやめておきましょう)。