プロ野球選手・指導者。元フジテレビ専務。
右投右打、ポジションは外野手。背番号は21→19→11→30番。
1913年10月12日生まれ。愛知県出身。
愛知商業*1で投手として2年連続夏の甲子園に出場。
卒業後、早稲田大学に進学。二塁手に転向。
4番打者として1934年・1935年秋の2度、東京六大学野球の首位打者を獲得。
1936年、三菱鉱業貝島炭坑に入社も、8月に退社し、大阪タイガースに入団。
1937年、イーグルスに移籍。
1939年、応召。中国にて従軍し、1940年帰国。
1941年、黒鷲軍に復帰。
同年、2度目の応召。満州に従軍し奉天満鉄の4番打者として都市対抗野球に出場。
1943年、大和軍に復帰。
1944年、3度目の応召。名古屋司令部に勤務。
1946年、パシフィックに移籍し、日本プロ野球に復帰。3番打者を打つ。
同年、退団し電通に入社。
1950年、西日本パイレーツ創立に際し、選手兼任監督として球界復帰。
1951年、電通に復帰。
1958年、札幌放送*2の設立に参画。
その後フジテレビの専務となる。
1969年6月1日、脳溢血のため東京都内のホテルで逝去。
妻は小倉みね子。