高山彦九郎の場合、幕府の監視の目が厳しくなり、包囲網の強化から追い詰められた結果、「自刃」という悲劇的な結末となりました。 朝廷に対しては、尊号の宣下は「決してご無用の事」としてきっぱり拒絶するとともに、この騒動を起こした責任者として、議奏を務めていた中山愛親と武家伝奏の正親町公明(おおぎまち きんあきら)他1名の公家の江戸召喚を朝廷に通告します。 京都御所今出川御門(向かいの同志社大学正門付近で撮影) 強行すれば、なし崩し的に認められるだろうと甘く考えていた朝廷は大慌て。尊号宣下を取りやめ、なので3名の呼出しは無用、とことを済まそうとします。が、幕府(定信)はそれを許さず、寛政五年(1793…