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対馬丸事件

(社会)
つしままるじけん

対馬丸事件とは、1944年8月21日、日本郵船の貨物船「対馬丸」が、疎開学童、引率教員、一般疎開者、船員、砲兵隊員1,788名を乗せて、沖縄から長崎へむけて出港したが、1944年8月22日夜、鹿児島県・悪石島の北西10kmの地点を航行中に、米国海軍の潜水艦ボーフィンの魚雷攻撃を受けて沈没した事件のこと。
ほとんどの乗船者は船倉に取り残され、海に飛び込んだ人も台風の接近に伴う高波にのまれたため、犠牲者数1,418名(2004年8月現在、氏名判明分)に達した。筏にすがって漂流した人々は、付近の漁船や海軍の哨戒艇に救助されたほか、奄美大島まで流されるなどして生き延びた。

事件後

救助された人々に対しては箝口令がしかれ、対馬丸が撃沈された事実を話すことを禁じられた。犠牲者や生存者に関する詳細な調査も行われず、沖縄に残された家族にも正しい情報が伝わることはなかった。
また対馬丸事件の後、1944年10月10日には那覇を中心に大空襲があり、翌年の地上戦では県民の4人に1人が犠牲になり、悪石島もさらなる戦争被害を被ったため、対馬丸事件が知られるようになったのは第二次世界大戦後しばらく経ってからのこととなった。
1950年10月、犠牲者の家族たちは遺族会の活動をスタートさせ、1997年、遺族会からの要請に基づいて行われた悪石島沖海底捜索の結果、12月12日船体が発見された(北緯29度31.93分、東経129度32.90分、水深871m)。遺族は引き揚げを要求したが、政府は対馬丸船体引揚げ可能性調査検討専門家会議の結論を受けこれを不可能とし、代替案として「記念館」の建設が持ち上がった。
2001年6月、「対馬丸記念館」が全額国庫補助で建設されることが決まり、対馬丸遭難者遺族会は記念館運営のために財団法人対馬丸記念会へ組織移行、2004年8月22日に那覇市旭ヶ丘公園内で開館した。

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