大塔合戦(おおとうがっせん)
1400年、信濃守護小笠原長秀と信濃東北部の在地土豪族の間で起こった戦い。信濃守護に補任された長秀が強引に国内支配を推し進め、反発した国人が小笠原氏追放に立ち上がった。在地土豪族の連合軍は、小笠原長秀を塩崎城に追い込み、大塔城に立て籠もった多くの守護勢を潰滅。長秀は和議が成立して京都に逃げ帰った。建武の乱以降、30年に及ぶ守護大名と国人達の総括としての合戦であり、信濃における戦国時代の始まりを告げる合戦でもあった。
上原城入口にある城址碑 諏訪大社上社大祝であった諏訪氏の居城。 古代より続く諏訪氏の出自には、複数の説がある。古事記には、大国主命の国譲りの際に、その子建御名方神が敗れて科野(シナノ)の州羽(スワ)の海に落ち延びて助命されたとあり、諏訪氏はこの裔であるとも、神武天皇の子神八井耳命の後裔金刺金弓の子孫ともいう。このほか、信濃源氏のひとつである清和源氏源満快流という説や、桓武天皇の後裔という説もあるが、いずれにしても、諏訪大社の神官の家系は神氏と呼ばれ、高貴な血筋として尊崇された。 平安時代末期になると、各地の神職系豪族と同様に、諏訪大社の神職の家も武士化していったが、源平の争乱で源義仲に与した家…
有賀城本丸の城址碑と解説板 鎌倉時代に、諏訪神家一党三十三氏のひとつとして名前の挙がる諏訪一族の有賀氏が築いた山城で、承久年間(1219-22)の築城という。有賀は、アリガではなくアルガと読む。 城が築かれたとされる前後、諏訪湖西岸の岡谷の辺りに有賀四郎という武将が居たとされ、築城者はこの人物なのかもしれない。また、承久3年(1221)の承久の乱前後の事であり、この後も有賀氏が代々居城していることから、新補地頭として新領地支配のために築かれたという可能性もある。いずれにせよ、諏訪と伊那谷を結ぶ有賀峠の街道筋を抑える役目があったのだろう。 以降の有賀氏は、諏訪大社大祝の諏訪氏に従って活動したよう…
一通り参拝が終わりました。最後に妹夫婦は社務所で御朱印を依頼し、娘達と母は御守りを授かっておりました。私は社務所の方に宝物館に入館したい旨を伝え、普段は鍵が掛かっている宝物館に入らせて頂く事になりました。『少しお待ち下さい』との事なので、夏の日差しを避ける為に休憩室に入りました。 休憩室には奉納された面がズラッと並んでおります。能楽師の父は、世界中の演劇の中で『面』を付けた人が演じる役柄は『人ならぬもの』であると言っていた事を思い出しました。面は見慣れた能面とは少し違っており、神楽面(かぐらめん)と書いてありました。 信奉者の方が奉納された神楽面です。いずれの面も細部まで手の込んだ見事な彫りで…
「村上連珠砦」と呼ばれる太郎山周辺の砦群のうち、市街地から近い場所にある。上田駅から車で15分ほど。 「太郎山山系を楽しくつくる会」というボランティア団体があり、主に太郎山の登山道整備をしているらしい。この辺、大量の城跡があるのでついでにお城のガイドマップ作成や城跡の整備もしているようだ。村上連珠砦とは通称のようだ。全部で20ほどかたまっているので、いくつかの城を巡って縦走するルートも作ったり…さすが上田を代表する里山だ。気合いが入っている。 ちなみに太郎山はこれかな? 違うのかな? 名前はよく聞くけど登ったこともないし分からん。この近くに太郎山登山道があった。 入り口は崖沿いだった。眼下には…