大塔合戦(おおとうがっせん)
1400年、信濃守護小笠原長秀と信濃東北部の在地土豪族の間で起こった戦い。信濃守護に補任された長秀が強引に国内支配を推し進め、反発した国人が小笠原氏追放に立ち上がった。在地土豪族の連合軍は、小笠原長秀を塩崎城に追い込み、大塔城に立て籠もった多くの守護勢を潰滅。長秀は和議が成立して京都に逃げ帰った。建武の乱以降、30年に及ぶ守護大名と国人達の総括としての合戦であり、信濃における戦国時代の始まりを告げる合戦でもあった。
逃げ上手の若君 5 (ジャンプコミックスDIGITAL)作者:松井優征集英社Amazon 歴史マンガで時々地図を出してくれるマンガは良いマンガ 2年という時間制限。さらに決起まではあと4ヶ月。こういう制約の中でどれだけ物語を詰め込めるか 信濃に潜伏していた北条時行は、御内人であった諏訪頼重や滋野氏・仁科氏らに擁立されて挙兵した[3]。時行の信濃挙兵に応じて北陸では北条一族の名越時兼が挙兵する。諏訪氏の縁続きに当たる保科弥三郎(保科氏)や四宮左衛門太郎(武水別神社神官家)、関屋氏ら時行勢は青沼合戦において船山守護所(小笠原貞宗)を襲撃した。この間に諏訪氏・滋野氏らは信濃国衙を焼き討ち襲撃して、建…
上原城入口にある城址碑 諏訪大社上社大祝であった諏訪氏の居城。 古代より続く諏訪氏の出自には、複数の説がある。古事記には、大国主命の国譲りの際に、その子建御名方神が敗れて科野(シナノ)の州羽(スワ)の海に落ち延びて助命されたとあり、諏訪氏はこの裔であるとも、神武天皇の子神八井耳命の後裔金刺金弓の子孫ともいう。このほか、信濃源氏のひとつである清和源氏源満快流という説や、桓武天皇の後裔という説もあるが、いずれにしても、諏訪大社の神官の家系は神氏と呼ばれ、高貴な血筋として尊崇された。 平安時代末期になると、各地の神職系豪族と同様に、諏訪大社の神職の家も武士化していったが、源平の争乱で源義仲に与した家…
有賀城本丸の城址碑と解説板 鎌倉時代に、諏訪神家一党三十三氏のひとつとして名前の挙がる諏訪一族の有賀氏が築いた山城で、承久年間(1219-22)の築城という。有賀は、アリガではなくアルガと読む。 城が築かれたとされる前後、諏訪湖西岸の岡谷の辺りに有賀四郎という武将が居たとされ、築城者はこの人物なのかもしれない。また、承久3年(1221)の承久の乱前後の事であり、この後も有賀氏が代々居城していることから、新補地頭として新領地支配のために築かれたという可能性もある。いずれにせよ、諏訪と伊那谷を結ぶ有賀峠の街道筋を抑える役目があったのだろう。 以降の有賀氏は、諏訪大社大祝の諏訪氏に従って活動したよう…