日本の輸送船。上方(伊丹、池田、灘)で生産された「下り酒」を江戸まで搬送した。江戸時代中期から、明治時代の中期まで用いられる、構造は菱垣廻船(ひがきかいせん)とほぼ同じで、弁才船と呼ばれる和船の一種。相違は、単一の商品(清酒)のみを取り扱うこととし、積み込みの合理化を図ることによって輸送時間の短縮を実現したところにある。 参考文献として、司馬遼太郎『菜の花の沖』がある。
文字霊日記・3590日目 前回からのツヅキ カミを護る人間のセンソウはムゴイ・・・ ↓↑ 惨(むご)いイクサ・・・ 馬子は皇太后 「炊屋姫」 を 「推古天皇」 とし即位させ 「厩戸皇子(聖徳太子)」 を皇太子とし 摂政とした 推古天皇四年(596年) 馬子は 蘇我氏の氏寺 「飛鳥寺」を建立ー↓↑ーー↓↑ ・・・明日香=あすか =飛鳥(ヒチョウ) =安宿(アンシュク) =阿須賀(アスカ) 阿=阝+可(口+丁) 須=彡+頁(丆+目+八=捌) 賀=加+貝(目+八=捌) =阿諏化? 「寺(ジ・てら)=土+寸=十+一+寸」 寸=ー+亅+丶 寺院=ジイン=字音(韻) 字印 イン=陰・寅 ・尹 ・殷 吉田松…
御前浜から東に行き、東川を越えて、西宮市今津真砂町にある今津砲台の跡地に赴いた。 今津砲台記念碑 今津砲台跡から海を望む 今津砲台は、西宮砲台と同じく、江戸幕府が文久三年(1863年)から慶応二年(1866年)にかけて建設した砲台である。 西洋式砲台だったというから、形状は西宮砲台と同じであったろう。 今津砲台の記念碑 今津砲台も、実戦で使用されることなく明治時代を迎えた。 大正4年には民間に払い下げられ解体された。 今津砲台に使用されていた花崗岩は、石材として今津港から運び出された。 今津砲台跡の記念碑が海沿いに建っているが、この碑の石は、元々今津砲台を構成していた石材である。 今津砲台記念…
西宮神社の参拝を終え、西宮市川添町にある西宮郷土資料館を訪れた。 西宮市郷土資料館のある西宮市教育文化センター 西宮市立郷土資料館は、西宮市立中央図書館などの入る西宮市教育文化センターの中にある。 西宮市内の遺跡から発掘された遺物や、生瀬(なまぜ)宿の模型などが展示されている。 西宮市立郷土資料館の入口 館内に展示されている最も古い遺物は、仁川高台遺跡から発掘された弥生時代の石器である。 弥生時代の石器 石斧や石包丁、石の矢じりなどである。 石器は金属器と比べて、使った時の作業能率はかなり下がるだろう。だが、石からこのような道具を作るのも一苦労だろう。どの石器も、滑らかに磨かれている。磨製石器…
7月9日昼、手すきの時間に読みました。風が吹いて爽やかでした。 舞妓さんちのまかないさん(23) (少年サンデーコミックス) 作者:小山愛子 小学館 Amazon この巻から過去回想編です。例の、コロナカの祇園を襲った#metoo騒動を避けたわけではないと思いますが、この「思います」は本心を決して出さない京都人の「思います」です、勿論。 同じ景色を夢に見た、私たちが出会った場所。Netflixにて是枝裕和総合演出による実写ドラマ好評配信中です! 帯。百子サンとおかあさんが同期で旧友なのはなんとなく分かってましたが、おかあさんが屋形の娘だとすなおに思ってました。ちがった。京都人失格。百子サンが外…
『人に勝つより自分に勝て。 嘉納治五郎』 柔道の父と呼ばれた嘉納治五郎氏が遺したフレーズです。 柔道は、相手との戦いというのは一面のようです。 究極的には、試合は「お手合わせ」であり、よい組み手ができるかどうかに意識が向くのだそうです。 成果主義が蔓延り、賞金などがクローズアップされる時代ですから、勝ちにこだわる傾向が強いです。 勝負は時の運ともいいます。 当然のことながら、日常の鍛錬の積み重ね、ライバルとの切磋琢磨によって、鍛えられた上のことです。 これを運任せと考えてしまうと、鍛錬もせずに、試合に挑む無謀なことをしてしまうのです。 人生の中で、一番難しいのは、自己鍛錬です。それは、柔道でな…
龍泉洞温泉ホテルの朝ご飯 ミニビュッフェでパンもあったがご飯にしといた。 目玉焼きを自分で作る趣向。 何かやらんとと思っての趣向やろなー この日でツアーもお開き。 花巻空港に向かい乍ら観光しよう。 R455(途中R340)をひたすら走る。 岩洞湖に寄ってみた。 本州一厳寒の地とあるが。。。 氷点下22℃になるんだって。 凍った湖の上でワカサギ釣りが有名。 夏だから凍ってないわな 盛岡市内へ コインパーキングに停めて 盛岡地方裁判所敷地内にある 石割桜 春の開花シーズンは奇麗やろなー 岩手県庁 岩手県公会堂 盛岡はインバウンド客に人気の観光地となっているそうだ。 何でも歩いて回れる静かな町で歴史…
金曜日はテスト、自学、講義授業。 *英語構文テスト*英語単語テスト(上級レベル、40個の和訳) 歴史は『江戸時代の諸産業と都市の繁栄』。新田開発、農業技術の進歩、寛永通宝、樽廻船、蔵屋敷、株仲間、両替商など。動画や写真を確認しながら理解を深める。 TOP→PASSでは宿題とは異なる家庭課題学習日(週2回)でこれまでの復習と地理の動画講義も行っています。 塾って予習だけしていれば良いわけではありません。皆さんのお子さんが通われている塾ではいかがでしょうか?お子さんが塾でどのように学んでいるか把握されていますか?TOP→PASSは講義動画を保護者様も閲覧することが…
両国の鉄橋は震災前と変らないといつても差支ない。たゞ鉄の欄干の一部はみすぼらしい木造に変つてゐた。この鉄橋の出来たのはまだ僕の小学時代である。しかし櫛形の鉄橋には懐古の情も起つて来ない。僕は昔の両国橋にーー狭い木造の両国橋にいまだに愛惜を感じてゐる。それは僕の記憶によれば、今日よりも下流にかゝつてゐた。僕は時々この橋を渡り、浪の荒い「百本杭」や蘆の茂つた中洲を眺めたりした。中洲に茂つた蘆は勿論、「百本杭」も今は残つてゐない。(「両国」) これは昭和2年5月2日から22日にかけて、当時毎日新聞社の社員だった芥川龍之介が社命を受けて、『東京日日新聞(夕刊)』に「東京大繁盛記(46~60)」の標書の…
NETで見つけたこの企画 1企画で定員20名 予約してみた 開催日当日は 陽射しはキツイが空気は乾燥してる。日焼け対策してれば外歩きにはいい感じ。 公共交通機関で阪神西宮駅に到着。 酒蔵巡りなんだから当たり前ー 参加料払うと領収書をくれた。 西宮市(西宮日本酒信仰連絡会)主催らしいわなー この日のガイドさんはこのお二人 ボランティアでガイドされてるそうだ。 西宮の日本酒を愛でておられんだろう。 「宮子さんと巡る」 ガイドスタート 先ずは西宮戎総本宮へ。 このお店 また訪問しよう。 このルートでえべっさん境内に入るのは初めてかな? 献酒樽 灘五郷の菰樽と樽廻船(模型)が展示されてる ガイドさんか…
モンヴァルキャンソン水彩紙 F4 透明水彩 5月1日(水) 今日は、三重県志摩市 渡鹿野島の港のスケッチをご紹介します。 5年前の4月28日(日)から妻と三重県志摩市の渡鹿野島へ旅行に行っていました。 途中で三重県伊勢市にある二見興玉神社(ふたみおきたまじんじゃ)を参拝したり、境内の磯合にある夫婦岩(めおといわ)を見物してから船で数分の島に上陸しました。 渡鹿野島は、周囲約7Km、面積は約0.7Km2の小さな島でリアス式海岸の的矢湾の奥に位置しています。 このため波が穏やかなで、古くから荒天時の避難場所・風待港として使われていました。 江戸時代には江戸と大坂を連絡する菱垣廻船・樽廻船が増えて、…
□”御影”の由来 阪神御影駅近くにある”沢乃井”と呼ばれている泉に神功皇后が姿(御影)を映したことにちなむと伝承されています。そのほかにもいくつかの説があるようです。沢乃井は阪神御影駅の近くの高架下にあります。霊泉といわれ内は薄暗く神秘的な雰囲気を感じます。 清水がこんこんと湧き出す沢乃井 □御影の松 昔は阪神間の海岸沿いには白砂青松の風景が続いていたようで、御影も松の景勝地だったようです。 世にあらばまた帰り来む 津の国の御影の松よ 面がはりすな(藤原基俊) と謳われ、松が美しかったようです。43号線近くの西方寺にはこの古歌を刻んだ古い歌碑があります。この歌に因み、松葉を3本組合せてた図柄は…
菱垣廻船の模型など展示がないか、あったら見に行って写真を掲載しようと思ったのですが、結論としては、「見つからなかった」ので、「菱垣廻船」と並んで江戸時代の海上運送の主役となった「樽廻船」の写真を。いずれも「弁才船(べざいせん)」といわれる大型の木造帆船で、構造上大きな違いはありません。(菱垣廻船は舷側に木製の菱組格子の装飾があるのが特徴です) 樽廻船模型展示(西宮市郷土資料館館) 模型展示が全くない訳ではありません。「菱垣廻船 展示」で検索したところ、最初に「浪華丸」というのがヒットします。「日本海事史学会」のHPによると、 大阪市が市制100周年の記念事業として復元建造し、大阪市立の海事博物…
今回も東京都目黒区の祐天寺について。 前編では仁王門、本堂などについて述べました。 当記事では阿弥陀堂、地蔵堂などについて述べます。 阿弥陀堂 本堂向かって左手前(本堂北東)には、阿弥陀堂が西面しています。阿弥陀堂を西向きに建てるのはめずらしいと思います*1。 桁行3間・梁間3間、宝形、向拝1間、瓦棒銅板葺。 仁王門と同じく竹姫の寄進で、1724年(享保九年)上棟*2。区指定有形文化財。 向拝は1間。 母屋は正面側面ともに3間。正面の引き戸の上の扁額は、右横書きで「阿弥陀堂」。 向拝柱は几帳面取り角柱。正面(写真左)には唐獅子、側面には象の木鼻。 柱上の組物は連三斗。組物の上の手挟には、籠彫り…
酒造業を成功させ、大坂に進出した鴻池新右衛門(新六)。諸説ありますが大坂城下の旧久宝寺町に店舗を開いたと伝わります。現在その跡を示すものは残っていませんが、町内に「銅座公園」が。このあたりに鋳銅や銅の取引を行う「銅座」があった名残でしょう。 大阪府中央区の銅座公園(内久宝寺町2丁目) 大阪進出の時期が前回ご紹介したように元和五年(1619)のこと。この元和という時代は鴻池家だけでなく「元和偃武」の言葉で知られるように、日本史上でも大きな変革が起こった時期でした。 元和元年=慶長二十年(1615)に大坂夏の陣により豊臣家が滅亡、領主同士の争いが止み、武器を偃(ふ)せて武器庫に収めたことから「偃武…