永正17(1520)年、畠山尚順(入道して卜山)は紀伊から没落した。 この尚順の没落についての評価だが、特に昔の先行研究においては「息子稙長に追放された」と書かれることが多い。また親子相克の例として、あるいは黒幕を守護代遊佐順盛とし後の遊佐長教の行動と絡め下剋上の例として、衰退する守護家の文脈として語られている印象を受ける。 一方で、近年の研究の総括となる『戦国武将列伝7 畿内編下』の畠山尚順・畠山稙長の項目では尚順の没落を「湯河氏らに背かれ没落」としており、稙長の関与は記されていない。過去の記事で紹介しているが、近年になり稙長の生年は従来より下っており、父の没落時彼はまだ12歳でしかない。お…