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お市

(一般)
おいち

 天文16年(1547年)? - 天正11年4月24日(1583年6月14日)


織田信長の妹。戦国随一の美女と謳われた。
永禄10年(1567年)に浅井長政に嫁ぐ。長政との夫婦仲はすこぶる良く、周囲から羨まれるほどのおしどり夫婦であったという。
二人の間には茶々、初、江の三人の娘と、万福丸、万寿丸という二人の息子が生まれた。


兄の信長が朝倉義景を攻めると、朝倉家と古い同盟関係にあった浅井家当主長政は、織田家と朝倉家どちらにつくかで非常な苦悩に置かれた。
結局古い同盟を優先して義理立てし、織田信長との同盟を破棄し、朝倉側についた。信長は長政を高く評価していたらしく、幾度も降伏勧告をしたが、長政は聞き入れず、居城の小谷城で自害した。享年29歳。(1573年9月1日)
 お市は夫と運命を共にするつもりであったようだが、長政に諫められ、娘3人とともに信長に保護されることとなった。因みにこのとき長男の万福丸を木下秀吉(後の豊臣秀吉)に惨殺されたため、お市は生涯秀吉を恨み、許さなかったという。


その後、信長の庇護の下ですごしていたが、信長が本能寺の変で亡くなり、羽柴秀吉の斡旋で柴田勝家と再婚した。
柴田勝家が秀吉と対立して賤ヶ岳の戦いで敗れ、越前北ノ庄城内は秀吉軍に包囲された。秀吉はお市をことのほか気に入っており、このときも再三にわたって投降を勧告したものの、お市は夫勝家と運命を共にすることを選んだ。享年37歳。
落城の際、お市は三人の娘に(浅井の血を絶やしてはならぬ)と諭したという。

浅井三姉妹

 戦国随一の美女と謳われた母、お市の方の気質と美貌を受け継いだ長政の娘達はいずれも戦国乱世の中で数奇な運命をたどることとなる。浅井家の血は崇源院(江、江与または小督とも)によって徳川幕府264年の礎となり、現在に至るまで受け継がれている。

茶々(淀殿)・・・・・ 豊臣秀吉正室
初(常高院)・・・・・ 京極高次正室
江(崇源院)・・・・・ 徳川秀忠正室。徳川三代将軍家光の生母。将軍の正室(御台所)として将軍生母となったのは、彼女が江戸幕府の歴史の中で唯一の例。

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