賢治は,大正7年(1918)に盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)を卒業して研究生となる。2年後に指導教官(関豊太郎教授)から助教授に推薦されるが辞退する。翌年の11月に稗貫(ひえぬき)農学校 ( 現在の岩手県立花巻農業高等学校 )の教諭になる。しかし,4年後の1926年3月には退職し,私塾である羅須地人協会を設立して,以降農業指導に奔走するようになる(原,1999)。退職の主な理由は,よく分かっていないが,生徒に対しては「農民になれ」と言っておきながら,自分は楽しい授業をして相当額の俸給を貰っていたことも一因と考えられている。 賢治は,教鞭をとりながら文学作品も書き続けた。『銀河鉄道の夜』(…