三帝会戦とも。ナポレオン率いるフランス軍が、ロシア・オーストリア連合軍を相手に大勝利を収めた戦い。ナポレオンの全会戦中の最高傑作とも称えられる。
アミアンの和約は内容にもともと無理があって破綻するはずだった、と後世から指摘するのは容易い。各陣営の当事者がどの程度それを意識して行動したかは別であるが。
とまれ、1804年12月2日、ナポレオン・ボナパルトは「フランス人民の皇帝」として自ら戴冠した。一方の雄、イギリス首相ウィリアム・ピット(小ピット)はその手腕でもって対仏大同盟の再建を果たしつつあった。1805年にはついにロシアとオーストリアがイギリス側に荷担してフランスに対抗する意図を明らかにした(第3次対仏大同盟)。フランス革命戦争の続編、ナポレオン戦争の開幕である。
もともとは英本土上陸作戦を計画してブーローニュに軍営を置いていたナポレオンであったが、フランス海軍が頼りにならないこともあって計画を中断、イギリス遠征軍改め大陸軍(グランダルメ)は、オーストリアを叩くべく欧州大陸内部への移動を開始した。
こうして攻勢に出たフランス軍は各所でオーストリア軍を撃破する。1805年10月20日には謎の動きを見せた*2マック将軍麾下のオーストリア軍23,000をウルムで包囲・降伏させるという大勝利を達成した*3。ナポレオンは「予は行軍のみにて勝てり」と豪語*4。
その頃大西洋では、うっかりフランス・スペイン連合艦隊が、ネルソン提督率いるイギリス艦隊によって義務を果たされてしまっていた(→トラファルガー海戦)が、ここでの主役はイギリスではないので省略。
さて、ナポレオンとしては残りの野戦軍も撃滅して、戦役だけでなく戦争にも決着を付けたかったが、そうは問屋が卸さなかった。オーストリア軍の残余の部隊と、クトゥーゾフ将軍のロシア軍前衛部隊は後退に成功して、モラヴィアでロシア本国の増援と合流を果たす*5。
ナポレオンはとりあえず帝都ウィーンに入城するが、戦争はここでは終わらない。何しろ、オーストリア最大の軍事的才能の持ち主たるカール大公率いる大部隊が(南部戦線からの帰還途上にあって)健在だったし、時間が経てばプロイセン軍の参戦も期待できた。もとより、旅暮らしのフランス軍がのんびり構えているわけにも行かない。
ナポレオンは決戦を求めてモラヴィアに向かい、とりあえずブリュン*6まで進撃すると、早期に決着を付けるべく罠を張った。
必要以上に軍の状態が過度に悪化しているかのごとく装い*7、部隊を後退させて誰の目で見ても軍事的要点であるはずのプラッツェン高地を放棄するという挙に出た。
これにひっかかった連合軍は進撃してきた*8。さらにナポレオンはフランス軍の右翼を弱体にして攻撃したくなるような布陣にしておいた上で、駄目押しとして(嵩にかかった連合軍首脳が拒否してくることを織り込み済みの)休戦要請の使者を送り込んだ。もちろん休戦は拒否され、決戦が行われることになった。
連合軍の作戦計画は割とシンプルなものだった。大筋では連合軍右翼がフランス軍の左翼へ陽動兼拘束目的の攻撃を行いつつ、南側(フランス軍右翼)への攻撃で突破/迂回を図り、爾後旋回機動によってフランス軍を背後から包囲する、というものだった。
1805年12月2日、ナポレオンの皇帝戴冠一周年記念日の朝から戦いは始まった。立ちこめた霧及びナポレオンの巧妙な布陣によって、連合軍が得ていた情報は不十分なものとなっていた。
事前計画通りにプラッツェン高地を降りた連合軍主力がフランス軍の右翼に攻撃を仕掛けると、そこのフランス軍は思ったよりも強力だった。本来はスルト元帥麾下の第四軍団(の半分)だけだったはずのフランス軍右翼には、さらに(ウィーン方面にいたはずの)ダヴー元帥麾下の第三軍団が布陣して連合軍を待ち受けていた*9。
一方のフランス軍の左翼ではランヌ元帥麾下の第五軍団がバグラチオン将軍率いる連合軍右翼と激戦を繰り広げていた。
実はこの時点で、遠隔地にいたはずのベルナドット元帥の第一軍団はフランス軍主力に合流していた。ダヴーの来援と併せて、本来「5万強」だったはずのフランス軍は「7万以上」に膨れあがっていた*10。
「勝った……計画通り!」と思ったかどうかまでは分からないが、ナポレオンが、連合軍主力が出払って発生した中央部の弱点を見逃すはずもなかった。プラッツェン高地に向けて、スルト元帥の第四軍団(の残り半分)が送り出された。がら空きの中央を衝く攻撃は奇襲となり見事成功する。
連合軍主力は頑強な抵抗を続けるフランス軍右翼を突破できずに戦闘が続いてた。連合軍はチャンスだと思って戦っていたはずなのに、いきなり大ピンチに陥る。
やむなく連合軍の中央を預かるクトゥーゾフ将軍は、総予備たるロシア近衛兵部隊を投入して高地の奪回を図る。が、ナポレオンは容赦なくベシェール元帥の近衛軍団、ベルナドット元帥の第一軍団と次々に戦力を叩き込んでくる。激戦の末にここでの勝利はフランス軍のものとなった。
フランス軍が(右翼が持ちこたえている一方で)中央突破に成功した以上、勝敗は明らかだった。戦いは退却する連合軍残余部隊への追撃と包囲に移る。
死傷者1万6千と捕虜1万1千、大砲180門と軍旗40以上という大損害を受けて連合軍は壊滅した。これに対してフランス軍の損害は死者1300と負傷者7000に過ぎず、まさにフランス軍の圧勝だった*11。
敗北によって、オーストリアはプレスブルクの和約を結ばされた。これによってオーストリアは大量の領土を割譲させられ、ついでに4000万フランの賠償金も課せられた。第三次対仏同盟はここに崩壊した*12。
翌1806年には名目上の存在であった神聖ローマ帝国も解体されて、ドイツにおけるフランス衛星国を束ねる「ライン同盟」が成立している。これに対抗するべくプロイセンが立ち上がることになるのだが、それはまた別のお話のお話。
*1:いずれも「通説」に従ったものであって、異論も提出されている
*2:いや正確には「動かなかった」ことが問題なのであって、動いたわけではないが
*3:ここまでの戦役で大陸軍が得た捕虜は約6万
*4:豪語じゃなくて実際その通りではあるが
*5:ついでにロシア帝国の皇帝アレクサンドル1世と、オーストリアというか神聖ローマ帝国の皇帝フランツ1世がセットで付いてきた。ロシア軍の方が兵力が大きかったので、形式上の最高指揮権者はアレクサンドル1世になった
*6:現チェコ共和国ブルノ。アウステルリッツの西にある
*7:いや実際ウルムからウィーンまで急進撃していたし、さらにモラヴィアくんだりまで出かけてきたわけだから兵力が分散したり疲弊したりしていたのは事実だが
*8:「想定戦場近くの高地」とかいう緊要地を無視するというのは(ガリポリなどを見れば分かるように)軍事的常識に反する行動なので、進軍自体が間違いだと言いきれるわけではないが
*9:といっても強行軍のせいでかなりの兵力が脱落しており、第三軍団の全力が布陣していたわけではなかったが
*10:連合軍側の参加兵力が実は8万以下だとする論者もおり、だとすると頭数ではほぼ互角かもしくはフランス軍の有利となる
*11:なお、連合軍左翼部隊が撤退するときに氷結した湖を通って退却しようとしたので、ナポレオンは自ら指揮する砲20門でこれを砲撃、2万人ほどが溺死したとしている(大陸軍公報第30号より)。むろん本当に2万人が溺れたとか信じている研究者はほとんどいない
*12:英首相ピットは心労のあまり翌年急死する