『ターヘル・アナトミア』(「解体新書」)の時代は遠い昔のことではあるが、それから100年以上たっても、外国語学習の環境はあまり変わっていなかった。1960~70年代だと、アジアやアフリカの言語を学ぶのは難しいのは当然としても、西洋語でもイタリア語やポルトガル語を学ぶのも簡単ではなかった。英語は例外だが、そのほかの言語を教える教室が見つかっても、東京や京阪神にあれば、それ以外の地に住んでいる人は、わざわざ出かけなければいけない。1960年代になっても、英語以外の外国語は長崎にオランダ語を学ぶに行くようなものだった。 日本の鮮語学習史を、ほんの少し調べたことがある。萩原遼の場合はどうだったかという…