岩波文庫155ページ「心量を挙来(こらい)して威儀を摸索(ぼさく)すべからず、擬議すべからず。心量は一面なり、たとへば「世界」のごとし。」 心で考える(頭の中で考える)ことでは仏の行動に備わる威儀を探すことはできないし、考えることもできない。心でわかることは一面に過ぎない、例えば「世界」といっても見えているのは大宇宙のごく一部であることのようなものである。 今は、知識を持っているとか、理屈をうまくしゃべれるとかが評価されているように見える。しかし、私にはどれもこれも、全体のごく一部を自分の都合のいいように切り取っているように見えて仕方がない。そもそも全体像なんて全然見えていないのじゃなかろうか…