『虚無への供物』(1964年)で、日本ミステリ史上に名を残す中井英夫のエッセイに、『虚無』を書くきっかけとなったミステリについて語ったものがある。鎌倉まで所用があって、車中で時間をつぶすために分厚いミステリを貸本屋で借りた、という話である。読み始めると、期待にたがわぬ面白さで夢中になったが、何と、結末の部分が落丁になっていた。お預けを食わされて歯噛みした中井は、それでも密室のトリックを自分であれこれ想像して、とうとう解決方法をひとつ思いつく。 「それは、まさかこんなくだらないトリックじゃないだろうなというほどのお粗末 なものだったから、私はなお期待をこめて完本を探し、お目当ての箇所を読んだ。そ…