(主に中京を中心とした)東海地方の方言で、自転車のこと。 語源として、(ペダルを)蹴ったくる(蹴りまくる)からという説がある。地方によっては「ケッター」と伸ばす場合もある。
類語の「ケッタマシーン」は、自転車を意味する「ケッタ」と機械を意味する「マシーン」の複合語で、「ケッタ」同様に自転車を指す地域と、原動機付き自転車のことを指す地域があるようだ。 関東地方のママチャリの同義語で「ママケッタ」と呼ぶ地域もある。また、「婦人ケッタ」と言う地域もある。
石川忠司との対談の日の候補が最初八月十一日と十八日の二日あがっていて、結局石川忠司の希望で十八日になった。十一日の夜遅く、私は便秘がひどい十八歳になる家の猫に月に一、二度飲ませている液状の下剤を飲ませたのだが、最近はあんまり効かなくなってきていたのでいつもより多く飲ませた。そうしたら思いがけずすぐに下剤が効いて、それどころか効きすぎて明け方から朝の十時くらいまで下剤と嘔吐が止まらなくなって、猫は激しく衰弱してしまった。夕方には下剤や嘔吐はおさまったものの猫はぐったりして水も飲めない。結局、木曜の深夜にはじまったその状態から回復して口から物を食べられるようになるのに、二度の通院を経て日曜の夜まで…
ランキング参加中ハンドメイド タイトル:GWの予定。。。 DIY1:基本はカレンダー通り。 DIY2:車があまったので。 DIY3:ちょっと脚がほしいなあ。 タイトル:GWの予定。。。 DIY1:基本はカレンダー通り。 最近ちょっと仕事が忙しいんです。 休日出勤だけはなるべくしないようにしていますがそれでも毎日残業4時間。 でもいよいよ納期の関係で祝日なんかは出勤しないとヤバいんです。 DIY2:車があまったので。 昨年末。 車検が切れるタイミングでYUCHIカーを売っちゃいました。 基本休みは同じだし、 HACHIが社用車もらってるので駐車場に3台あってもしゃあないなあと思いまして。 でこの…
だからどうだって言うんだ? そんなことは知らない。 「だから」と思考を急いで統合しないで、しばらく考えが出てくるのに任せよう。「だから?」と言われたら、「そんなことは知らない」だ。人間はただ単線的に成長(進歩)して、成長(進歩)した知性からは不合理とみなされる思考を成長(進歩)した思考にきれいさっぱり置き換えるわけではなくて、爬虫類時代の記憶のように古層として持ちつづける。というか、それが最もプリミティブな思考様式や感受性であれば、その後どれだけ知のあり方が更新されても世界に対する感触として鼓動しつづけ、おそらくはリアリティとはそこから供給される。 (保坂和志『小説の誕生』 p.379) 8時…
人間(人間観)とは自分を取り巻く自然(自然観)世界(世界観)の一環であって、自然や世界に対するイメージが機械論的に緻密になると人間についてのイメージも同じように緻密になる。私たちは日常的に接しているものから思考のモデル——または、モデルの前提——を習ってしまうようにできているから、自分自身の内面というのも基本的にはそれの延長・変形による解釈なのだ。 (保坂和志『小説の誕生』 p.375-376) 6時15分起床。クソ眠い。トーストとコーヒーの朝食。 8時から三年生の日語文章選読。「卒業生のみなさんへ(2019年)」第二回。しっかり詰めた甲斐があって完璧。雑談ふくめて大いに盛りあがった。子どもの…
『ディアーナの水浴』を繰り返し読みながら、この疑問が「解けた」とは言わないまでも、ひとつの回答が与えられたというか、疑問に対するアプローチが生まれたというか……。問いというものは、そのようにいろいろなアプローチが生まれていく過程でたぶん問いではなくなって答えに変質しているのではないか。 (保坂和志『小説の誕生』 p.356) 6時15分起床。トーストとコーヒーの朝食。第19課のシミュレーションをざっとおこなう。部屋を出る。寮の入り口そばで見慣れないアジア人が立ち話している。中国人ではない。肌が白い。一瞬うわさの日本人かと思ったが、複数人固まって談笑しているふうだったので、たぶん中央アジアからの…
小説というのは何かが時間とともに展開することであって、その展開は中原昌也の小説のように唐突に、暴力的に途絶えたりもする。「途絶える」ということは時間の中でしか起こらない。流れるべき時間が途絶えるということは、「流れるべき時間がある」ということを強く意識させることだ。「唐突さ」というのは時間の中での出来事であって、時間の中の出来事だからこそ、それが本当に唐突かどうかは、事前に(頭の中で)想定しても結局のところはわからなくて、書いてみるしかない。 (保坂和志『小説の誕生』 p.354-355) 6時15分起床。トースト二枚とコーヒーの朝食。トーストに以前二年生のC.Rくんからもらったハチミツを塗っ…
現実に存在している人間というのは、いくつもの面を持っていて、私たちはその人に対して実際のところは統一したイメージを持つことを放棄していて、何か事があるたびにその人との経験からあらためてその人のことを考え直すという風にしているのだが、現実の中では自分がそういう風にしているということをあんまり考えていない。つまり統一したイメージを持つことを放棄しているということを自覚していない。(だからこそ、血液型とか星座とか心理学のタイプ分類の本を読んで、「そうだよね」と安直に納得してしまったりする。こちらの側にきちんとしたイメージができていたらそんなものは必要ない。) しかし小説を読むときには「この人物はどう…
宇宙というとき私たちは、宇宙の中にふわふわ浮かんでいるボールのようなものをイメージしているだろう。しかし宇宙というのはそんなものではない。ではどういうものが宇宙のイメージか? 宇宙は私たちが地球儀みたいに視覚像を持てるようなものではない。視覚像とはそれに似たものによって代用することであって、宇宙は他の何とも似ていないのだから、宇宙をイメージできる像はない。つまり、宇宙について考えるということは、視覚像が拒絶されるということを経験することでもある。 人間は視覚によって把えることができるけれど、人間の一生は視覚によって把えることも視覚によって代用可能なイメージを作ることもできない。しかし私たちは人…
時間の中での出来事というと、ひとつに因果関係がある。しかし私は因果関係というのがどうも胡散臭くて仕方ない。ニーチェもどこかで「なぜ、原因と結果に分けて考えたがるのか。原因-結果はひとまとまりの出来事である」という意味のことを書いていた。 人間は大きな連鎖の中から、自分の理屈で把握できるものを都合よく抜き出して、因果関係という方便を作っているだけなのではないか。 小説のストーリーは因果関係によって作られる。ある犯罪や事故が起きたときも、因果関係が問題にされる。しかし、同じ境遇に育った人間の中で、実際にその犯罪を起こすのはその人ひとりだけだ。現実の行動とそれ以前の過去や状況との間にはその人だけが飛…
今日の一冊 何もありません。 小さい頃? けんぱん(いまだと、めんこ) びーだま 小学校高学年位にブロック崩しのゲームをかってもらってからは、ゲームにハマり、街にケッタでいってインベーダーから始まりパックマン…ゲーム、GAME Gameの日々でしたね。 楽しかったなぁ、夢中で何もかも忘れて没頭してましたね、中学にはいるまでは。 そこから高校2年までは大して面白いこともなく過ごし2年で学校辞めてからは、バイクが楽しくて楽しくて、 しょっちゅう峠に走りにいって、それから車に移ってしょっちゅう峠に走り行って、これもまた、やまに毎日のようにかよっては、みんなとワイのワイので楽しかったなぁ。 ここ最近で…
ルーセルの小説は全体としてひとつの意味を醸し出すような書き方ではなくて、書かれている事物のひとつひとつを押さえていくことを読者に要求する書き方だ。 小説というのはふつう、全体としての意味が背後にあって、それが読者全員に共有されるようになっている、つまり著者によってあらかじめ加工された世界が読者に受け渡しされるようになっているのだが、ルーセルの場合には作中の「私」「私たち」の視線がそのまま読者の視線となっている。だから読者は、「私」によって加工された光景を読むのではなくて、「私」と同じ立場で光景に立ち合わなければならない。 (保坂和志『小説の誕生』 p.127) 10時起床。歯磨きをして洗濯機を…