ゾーエー派(英語: Zoeha)は、浄土真宗の宗派の一つである。大黒学によって2017年に創始された。
ゾーエー派は、次のような教義を持つ。
命を持っている存在者は、「衆生」(しゅじょう)と呼ばれる。肉体的に生きているすべての衆生は、「ビオス」と「ゾーエー」と呼ばれる二種類の命を持つ。ビオスは肉体的な死とともに活動を停止するが、ゾーエーはそののちも活動を継続する。
宇宙の始まりから現在に至るまでに肉体的に死亡したすべての衆生のゾーエーは、一つの集合体を構成している。死亡したすべての衆生のゾーエーから構成される集合体という概念は、「如来」(にょらい)と呼ばれる。如来の個体数は一であり、それに対しては「阿弥陀」(あみだ)という固有名が与えられている。
阿弥陀が住んでいる場所は、「極楽」(ごくらく)と呼ばれる。阿弥陀は、衆生が肉体的に死亡すると、そのゾーエーを収集して自分の一部分にする。衆生が阿弥陀の一部分になることは、「衆生が極楽に往生する」と言われる。
阿弥陀は、宇宙において最初に衆生が肉体的に死亡した瞬間に出現した存在者であり、宇宙の消滅とともに消滅することになる存在者である。
肉体的に死亡した衆生のゾーエーを自分の一部分にするという阿弥陀の行為は、「往相廻向」(おうそうえこう)と呼ばれる。さらに、阿弥陀による行為としては、「還相廻向」(げんそうえこう)と呼ばれるものもある。
還相廻向とは、阿弥陀が、肉体的に生きている衆生に対して「アタラクシア」と呼ばれる幸福を与えることである。
阿弥陀を構成しているゾーエーはアタラクシアを幸福として認識するが、肉体とともに生きている人間は、それを幸福として認識することができない。しかし、アタラクシアを滋味として味わうことは可能である。
肉体とともに生きている衆生は、そのビオスの本性のままに生きているとき、アタラクシアを滋味として味わうことができる。人間のビオスの本性は、「思考するものである」ということである。したがって、人間は、思考することによって、アタラクシアを滋味として味わうことができる。味わうことのできる滋味の濃淡は、思考の深さに比例する。浅い思考は滋味が希薄であり、深い思考は滋味が濃厚である。
ゾーエー派の信徒というのは、ゾーエー派の教義が真実であると信じている人間のことである。したがって、ゾーエー派の信徒になるために必要なことは、「浄土真宗ゾーエー派の教理問答」という経典を熟読して、そこに書かれている教義が真実であると信じることである。
ゾーエー派以外の浄土真宗の宗派においては、「帰敬式」(ききょうしき)と呼ばれる儀式を通過することが、正式な信徒になるための条件となっているが、ゾーエー派においては、それに類する儀式は存在せず、いかなる儀式を通過することも、信徒になるために必要な条件ではない。
ゾーエー派は、信徒が教団を作ることを要請しない宗教である。したがって、ゾーエー派は教団を持たない。