Wilhelm Friedemann Bach ウィルヘルム・フリーデマン・バッハ(1710−1784)。
J.S.バッハの長男で作曲家。兄弟の中で、もっとも父から将来を嘱望されていたが、実際はその反対となってしまった。
ヴァイマールでバッハと最初の妻、マリア=バルバラとの間に生まれた。
父親自身の手による「フリーデマン・バッハのための音楽帳」や「インヴェンションとシンフォニア」などの楽曲で、英才教育を受けた。その上で、ライプツィヒ大学に進学、法律、数学、哲学などを修め、同時に父親の助手をコレギウム・ムジクスなどで務めていた。
1750年に父が亡くなると貴重な自筆譜を大量に相続するが、これも精神不安定で身を持ち崩しがちなフリーデマンの借金のかたとなり、ほとんどが散逸、行方不明となってしまった。ハレ市の教会オルガニストを勤めていたが、市当局とも折り合いが良くなかった。窮乏生活はさらに悪化し、1770年には、妻の財産を競売にかけて売り払い、ハレを去るまでにいたった。
その後は亡くなるまで、定職につくことなく、ドイツを転々とする。そんな彼にもバッハの元・弟子で宮廷音楽家の地位にのぼっていたキルンベルガーという音楽家(バッハの用いていた音律、いわゆる古典調律の研究で有名)に助けの手を差し伸べてもらいながら、その彼を中傷し、地位を奪おうなどともした。誰からも見放されたフリーデマンは極貧に陥り、最後は肺疾患でなくなった。
ハープシコード協奏曲や、鍵盤楽器作品、交響楽、カンタータなど、多数の作品は残され、近年は録音もされはじめた。