Michael Collins
1916年、ダブリン。アイルランド独立を目ざすイースター蜂起は失敗に終わり、指導者たちは処刑された。処刑を免れたデ=ヴァレラ、マイケル=コリンズらも投獄された。
1918年5月、出獄したコリンズはゲリラ戦法を用いた独立への戦いを始める。そんな彼に近づいてきたのが、英国の警官ネッド=ブロイだった。コリンズの演説に妙に説得力のあるものを感じたというブロイ警部は、独立運動の指導者に対する一斉摘発の情報をコリンズに流すが、ヴァレラはそれを無視し、逮捕される。コリンズはブロイの手引きで警察の資料庫に入り込み、英国側の“Gメン”たちの情報を手に入れ彼らの抹殺に取りかかる。
そのころ脱獄に成功したデ=ヴァレラは、アイルランド共和国大統領として渡米し、米国に支援を求めようとする。コリンズはいまアイルランドを離れることに反対するが、ヴァレラはコリンズの親友ハリーを連れて旅立つ。
“Gメン”たちを殺された英国は新しい警備隊をアイルランドに派遣する。コリンズはまたもや次々と“死の配達人”たちを送り込み、彼らを暗殺していく。英国は報復としてフットボール場に戦車隊を突入させ、無差別に撃ちまくる。
しかし、米国から帰ってきたヴァレラは、コリンズのゲリラ戦法を好まなかった。彼は正規の軍隊による英国との戦争を主張する。戦いは劣勢だったが、英国は休戦を求めてきて条約が締結されることになった。ヴァレラらは、条約締結の全権をコリンズに託す。条約の内容は、アイルランドを自由国として政府をもつことを認められたが、英国に忠誠を誓うという不十分なものだった。コリンズはこの条約を今後の足がかりにすぎないと考えていた。ところが、アイルランド議会では条約締結に反対する声が渦巻いた。コリンズは「条約を拒めばまた戦争だ。自由と平和の代償としての汚名ならば喜んでかぶる」と訴え、7票差で条約の承認が決定した。
1922年1月16日、条約の賛否を問う国民投票を前に、英国からアイルランド自由国軍へダブリン城が移管された。7月7日、国民投票により条約は承認されたが、デ=ヴァレラたちはこれを拒否し、あくまでも完全独立と共和国の達成を説いて、国民に内戦を呼びかける。
ついに内戦が始まった。コリンズら自由国軍には英国軍が加わった。コリンズは渡米以来、ヴァレラの右腕となり、今や敵に回った親友ハリーに和解を求めるが、ハリーは応じず、戦闘のさなか、撃たれて殺される。
内戦を終結させるためのトップ会談がコリンズの故郷ウェストコークで開かれることになり、コリンズは暗殺の危険を省みず久しぶりの故郷に戻ってくる。しかし、会談の場所に向かう途中には、条約反対派が潜んでいた…
*1:Rated R for violence and language.